イエスは私の主人でおられる
(マタイの福音書8:5~13)
神は
父でおられる
その方が
なさることはすべてその名のためである(マタイ6:9)
神は万物を創造した造物主でおられる(へブル1:2)
人類もその方のものである(詩100:3)
それゆえ、
その方は主人でおられるし、
その方に服従しないものはない(マタイ16:16)
これが私たちの信仰である
信仰は主人としもべの関係である(マタイ8:9)
主人は自分の思い通りに命じるし、
しもべは主人の思いに従う(マタイ6:10)
主人としもべの間にはただ
命令と従順だけがある
神は命令をいのちとして下されたし、
私たちは従順に命をささげる
このような関係にだけしるしがある
神のしるしはその方の御心をなしたものである(使4:28)
イエスは主人でおられるし、私たちはそのしもべである
聖霊は主人でおられるし、私たちはそのしもべである
○ 信仰があるといいながらも
神と永遠な関係を結ばないのであれば、
不信仰である
○ 神は命じられるだけである
信仰はその戒めに従うだけである
神の御子も御言葉も御心も命令である
○ 神の命令は永遠である
すなわち、永遠のいのちの御言葉である
神が責任を取られる
※ 私たちは主の御心を知ることなしにひざまずくのではない
主の御心通りに服従して、いのちを得る
従おう、従おう、生きるために従おう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 12. 30 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
人は生きる間にさまざまな苦痛を経験する。風邪にかかって熱を出したり、足を怪我したり、腹を痛めたり、骨を折ったりして、苦しむ。私の生涯で最も苦しかったのは空腹であった。これはただ心が痛いのではなく、五臓六腑が締めつけられて、起きることも座ることもできないくらいに痛い。口から言葉が出て来ないくらいに痛い。うめき声を出す力さえもない。それゆえ、私の骨や霊魂に刻み込まれた昔の記憶は生涯、消えることがない。 神はそのような私を召して、まことの飢え、渇き、空腹が何であるのかを教えてくださった。これは腐っていく肉体を慰めようとして、いっているのではない。霊魂は飢えて一度に死ぬわけではない。地獄に行って永遠に飢えて渇くし、死のうとしても死ぬことができないという苦痛を受ける。
肉体は空腹となってそれ以上、耐えることができない限界に達するときにひとつの選択をする。それは息を絶つという選択である。以前、私はその選択を決断した。しかし、そのとき、神がまことの空腹が何であるのかを知らせてくださった。それは「霊魂の飢え、渇き」であった。主イエスは自らパンとなり、飲み物となって、私の霊魂を生かしてくださった。
霊的な者となったのちにはまことの飢え、渇きを悟り、生きるために天から来る食物を満足するまで食べようとして毎日、身もだえする。私の霊魂は今、満腹である。私は主イエスがまことの食物となられたということを知って信じ、まことの飲み物となられたということを知ってそれを飲む。それゆえ、私の霊魂には常にその霊感が満ちている。私はその食物を食べ、その飲み物を飲み、それによって力を受ける。そして、悪霊を追い出して、悪魔に勝利する。それゆえ、まことに幸せである。
私は常に幸せな者であると考えるが、何をもって幸せということができるであろうか? 肉体が楽に生きることが幸せではない。それは肉体の機能を文明に奪われ、固有のタラントを失うことである。人は神から与えられた数百万のタラントをもって生まれてくるが、現代化されていく文明にそれを奪われている。頭がすることもスマートフォンやインターネットがするようになったし、手がすることも機械がするようになった。ものを移動させるのもフォークリフトがするようになり、それによって数千倍、早くすることができるようになった。また、これからはロボットの時代が迫って来ている。しかし、それが人の霊魂を幸せにすることができるであろうか? 肉体の固有の財産を奪っていく文明が人の霊魂を生かすことができるであろうか?
今、私は昼夜を問わず悪魔と戦っている。悪魔を滅ぼすことができないものはすべて無益である。私は今日も明日も主から与えられた信仰と力をもって悪霊を追い出すし、主イエスが「もういい。来なさい。」といわれるときに休む。これが私のまことの願いである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室