
自分を神にささげなさい
(創世記22:1~19)
神は
祝福を命じられる
その方が
イエスをこの世に知らせたし、(ヨハネ3:16)
ひとり子に全人類を得させた
神がアブラムに祝福を与えてアブラハムとされたので、
アブラハムは多くの国民の父となった(創17:4~6)
そして、
神はアブラハムを祝福して、祝福の根源とされた(創12:1~2)
これは
アブラハムがひとりで祝福を享受するよりも(創22:1~2)
アブラハムによって全人類が祝福を受けるようにされたのである
イエスは寂しい所で
パンがいくつあるのかと尋ね、
「それを私にもって来なさい」と命じられた(マタイ14:17~18)
そして、そのパンを祝福して、多くの者に食べさせた
神の力と御言葉と祝福を知らなければならない
自分と自分のものすべてを
神にささげるのであれば、神はそれを全人類のために用いられる
また、自分の物質をささげるのであれば、(マタイ4:19)
その物質がさらに多くの霊魂のために用いられる
○ 5つのパンと2匹の魚の霊感を信じなさい
神の祝福は5つのパンと2匹の魚の霊感である
私たちの信仰はこれである
○ 神はアブラムをアブラハムとされた
アブラハムはイサクを独占しないで、惜しまずにささげた
それによって全人類は救いを受けた
○ 神に自分をささげ、
自分の財産をささげ、子をささげなさい
神はそれに5つのパンと2匹の魚の霊感を与えられる
※ 神は生きていて、
昼夜を問わずに永遠に働かれる
私は神のものであるという信仰告白をしなさい
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 2. 3 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
イエス・キリストを信じることによって私は神を知ったし、神がなさること、すなわち神の働きを知った。私はそのときまで貧しさ、不幸、呪いを受けていた。あまりにも不幸な人生であると感じて、何回か自ら命を絶とうとした。そのように考えただけではなく、実際に行動に移そうとした。しかし、そのとき、神は私に大きな恵みと祝福の啓示を与えてくださった。
その瞬間、私はアブラハムを思い出した。彼は故郷を離れ、家族を離れ、父の家を離れて、孤独な旅人となった。彼の前途は人としてはまったく期待することもできないほど目に見えないものであった。彼が孤独で大変であったときに、神は彼を探された。彼はそのときに得た息子によって毎日、幸せを覚えた。
しかし、神はアブラハムに「あなたの喜び、あなたの幸せをあなたの家にだけ置かないで、私が命じたところ、モリヤ山に連れて行きなさい。そして、そこでいけにえとしてささげなさい。」といわれた。アブラハムはすぐに行動に移した。家に置いて自分ひとりの喜びとしていたひとり子を神にささげた。すると、神はその子イサクをアブラハムと全人類に与え、イサクから救い主が出て来るようにされた。
5つのパンと2匹の魚は子どもが食べるくらいの量であったが、ひとりでもっていないで、「それを私にもって来なさい」といわれたイエスにささげると、男だけでも5000人が食べるようになったし、全体で1万人余りが食べて満腹となった。
私はこのような真理、5つのパンと2匹の魚の霊感を悟った。自分の体をひとりでもとうとしていたために、不幸や呪いだけがあった。しかし、その体を神にささげたところ、その体は自分のものではなく、主のものとなった。その体は82歳になった今日にも全世界の人々に有益なものとなって、分け与えられている。私が直接、行くことができないところには私が書いた文章が走っていき、そこにいる人々の霊魂の中で働いている。
このように自分のものであるといって自分ひとりで隠して独占するのであれば、神はその人を用いられない。しかし、それを神にささげると、1万人に分け与えられた5つのパンと2匹の魚の霊感となる。アブラハムはイサクを神にささげたところ、空の星、海辺の砂のような多くの人類に大きな祝福を分け与える者となった。
この奥義を知るのが信仰である。自分のものを自分の手の中に置いておくのであれば、ひとりは用いることができるが、さらに多くの人、すべての人に分け与えることはできない。しかし、自分のものや体を主にささげるのであれば、全人類のために用いられる。ベレヤ国際大学院大学を勧めるのもこのような理由からである。自分を神にささげなさい。そうすれば、神が大きく用いられる。ひとりで用いないで、自分を神にささげて神に用いられよう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室