救いには証しがある
(ヨハネの手紙第一5:1~12)
神は
完全無欠でおられる
その方が
人類のための救いの御心をなすために
御子をこの世に遣わされた(ヨハネ6:38~39)
御子は
水によって臨まれたし、(マタイ28:19)
血によって臨まれたし、(ヨハネ6:53~55)
聖霊によって臨まれた(Ⅰヨハネ4:13)
それゆえ、
この3つがひとつとなる(Ⅰヨハネ5:8)
これが信仰の証しである(Ⅰヨハネ5:10)
イエスを信じる者は証しをもつ(Ⅰヨハネ5:11~12)
証しをもつ者はいのちをもつし、
証しをもたない者はいのちをもたない
信仰は宗教ではなく、真理である
真理はまことであり、証しがある(ヨハネ8:32)
真理でないものには証しがない
私たちは証しがある信仰をもった(マルコ16:20)
その証しは体験の実状である
聖霊は力によってその体験をもたせた
○ イエスの血は律法に勝利し、
律法の権勢をすべて廃棄した
イエスは血によって解放を与えられた
○ 聖霊は悪魔に勝利し、
悪魔の死の権勢に勝利された
聖霊は真理によって自由を与えられた
○ バプテスマは肉体の情欲に勝利し、
肉体の感情を退けた
ただ復活の目標に向かって前にだけ進ませる
※ この世に勝利し、悪魔に勝利し、
肉体の情欲に勝利するのが信じる証しである
体験がない宗教を捨てて、信仰をもとう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 3. 3 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私たちは以前、どうして人間が存在するのかを知ることができなかったが、主イエスに会ったのちに、人間が人の子の道を案内する者であるということを知った。それゆえ、バプテスマを通して、肉体のためにだけ生きていた生涯を葬ったし、肉体の情欲に従わないで、霊魂が見つめる主イエスにだけ属そうとする。これから生きるのは肉体ではなく、霊である。
イエス・キリストを知る前には私の魂はただ肉体の情欲を頼っていたが、その方を知ったのちには生き返った霊を頼るようになった。それで、「わが霊魂」という。私の霊魂はイエス・キリストの中で御言葉によって生きるし、聖霊の導きを受ける。神の子としての栄光を受ける。しかし、知らぬ間に私の霊魂に毒麦をまいていく悪魔が存在するために、心に毒麦が育つ。
私の霊魂は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ばなければならないが、悔しさ、憤り、敵意、苦痛、恨みが毒麦のように育つ。これは生きている私の霊魂の思いではなく、悪魔が与えるものである。目を覚ますと、聞こえてくるのは毒麦をまく音だけである。誰かを憎む思いが冬の風のように私の霊魂をすり抜けていく。私の霊魂はその風によって枯れていく。
しかし、これを悟って、気を引き締めようとする。葉は色づいたとしても、枝についている実は熟さなければならない。肉体は色づき、力を失い、一枚一枚落ちていったとしても、私の霊魂は熟した実となって、おいしそうに枝についていなければならない。そのようであってこそ、主人が収穫しないであろうか。それゆえ、霊魂のために生きよう。冬の風によって病んだ枝、赤く色づいた葉のような肉体の情欲をすべて捨てて、ただ霊魂のために生きよう。
私はすでにこの世にいる間に教えるべきことをすべて教えたし、できることをすべてした。これから私が願うのは肉体のために生きることではなく、ただ霊魂が聖霊によって行うことである。今、私の霊魂は神から出て来られる聖霊によって感動を受けるし、聖霊に満たされる。肉体は腐っていき、気力は失われていくが、近づいてきているそのときまで耐えて耐えよう。耐えてこそ勝利する。私の霊魂を救う方はただひとり、私たちの神、イエス・キリストでおられる。
神は霊魂の望みの極致でおられる。その神とは誰であろうか。イエス・キリストでおられる。その方は天から来て、ナザレで育ち、自分が人の子であることを見せられた。私たちの神は人の子でおられる。この世は笑うが、私は幸せである。神を知り、信じ、愛するので、まことに幸せである。私たちの神は天におられる人の子である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室