バプテスマは真理である
(ルカの福音書12:49~53)
神は
義でおられる
その方は
真理の父でおられるし、(ヨハネ17:8)
真理をこの世に遣わされた(ヨハネ14:6)
真理であるイエスは父の御心を行うために来られた(ヨハネ6:38~40)
その御心はイエスに与えた者をひとりも失わないというものであった
イエスは自分に与えられた人類を
神の国に移すためにバプテスマを受けられた
その方が受けられたバプテスマは十字架で死ぬことであった(ルカ12:50)
正しい良心は天に出て行くし、(Ⅰペテロ3:21)
善悪を知る良心は必ず裁きを受ける(創2:16~17)
律法の力は罪であり、(Ⅰコリント15:56)
悪魔の力は死である(Ⅰコリント15:55)
イエスの死は死の権勢を滅ぼしたし、
イエスの血は罪の権勢を滅ぼした
聖霊は死んだ者を生き返らせたが、これが真理である(ローマ8:11)
イエスの死は真理である(ヨハネ8:32)
真理はひとつである(へブル10:17~18)
主もひとつであり、信仰もひとつであり、バプテスマもひとつである(エペソ4:5)
神はひとつであり、真理でおられる(エペソ4:6)
○ 私たちは
聖霊によってバプテスマを受けたために、真理を体験したし、
魂を肉体から霊に移した
○ 聖霊によって体験したのは死からいのちに、
肉体からキリストに移されたということであり、
生まれ変わったということである
○ 聖霊と水によって生まれ変わらなければ、決して
神に会うことができない
バプテスマを受けることによって、初めて霊的な人となる
※ バプテスマによって家庭の中に争いがある
父と息子、母と娘の間に葛藤がある
これが霊的な争いである
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 3. 10 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
「ベレヤ」は以前、マケドニアの首都であったベレヤの人々の紳士的な信仰を模範として学ぼうとするものである。ベレヤ人はテサロニケ人とは異なり、紳士的であった。彼らはパウロから御言葉を聞いたときに、自分の感情や常識、文化をもって排斥しないで、果たしてその通りかと聖書を調べて確認した。そして、そこから得た信仰をもって熱心に主に従った。それゆえ、ベレヤ人の信仰を模範として学ぶために、視無言(シムオン)の聖書勉強を「ベレヤ」と名づけた。
ある人は自分たちも聖書を調べているという。しかし、その人は「神の意図」を悟ったであろうか? 「神の意図」には揺らぐことがない3つの柱がある。
第一に、「人の子と女」である。イエスは女の体から生まれた「インマヌエル」の神でおられる。その女は天で造られ、人「アダム」に注がれた。アダムはそれによって親から離れ、女とひとつとなった。アダム以前の人は霊をもたなかったが、このときからアダムは霊をもつ生きた霊となった。その霊は「いのち」、すなわち「生きた者の母」、「エバ」といった。エバとは生きた者の母、すなわちいのち、霊という意味であった。
第二に、「バプテスマ」である。モーセが荒野で蛇を上げ、それを信じた者が救いを得たように、人の子の十字架の死と結びついた者は救いを得る。十字架につけられた強盗はともに呪いを受けていたもうひとりの強盗に向かって「私たちは当然に刑罰を受けている。」といった。彼はイエスの死がひとつも罪がない義人の死であるということを信じ、自分もその死に結びついて生きようとした。それゆえ、主イエスは彼をパラダイスに連れて行かれた。これが私たちの救いである。
第三に、「私の霊魂はどこに行くのか?」である。はっきりとしているのは「死んでパラダイスに行く者と、パラダイスに行くことができないでアブラハムとともにいたのちに裁きを受ける者がいる。」ということである。両者はともに復活するが、「いのちの復活」と「裁きの復活」にそれぞれ分かれる。また、信じない者はすでに裁きを受けた霊魂であり、死んだのちによみで永遠に後悔する。しばらくの間、悪霊としてよみ(宇宙)にとどまって悪を行い、そののちに底知れぬ所に入って行く。彼らは地獄の子である。それゆえ、「私の霊魂はどこに行くのか?」である。
このような3つの柱をもって「神の意図」という家をしっかりと建てたのが「ベレヤ・アカデミー」である。しかし、真理に背き、ことさらに罪を犯し続けるのであれば、霊が火の中で、最も低い救いを受ける。「バプテスマ」という一回の事件がどれほど大きなものであるのかを悟って信じる者が「ベレヤ人」である。視無言(シムオン)は生涯、3つの柱を立てて、その中で「神の意図」という家を建てた。右にも左にも傾くことはなかった。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室