イエスが受けられたバプテスマ
(ヨハネの福音書3:14~21)
神は
義でおられる
その方が
愛するひとり子のために
全人類を創造された(へブル1:2)
人類は土から出て来た肉体をもっただけではなく、
いのちの息を吹き込まれたが、これはいのちであり、霊である(創2:7)
いのちであり、生きた者の母となった女をエバという(創3:20)
男は親を離れ、エバと一体となったが、
これを霊魂という(創2:24)
霊は善なる良心によってだけ生きなければならないが、(Ⅰペテロ3:21)
善悪を知る知識をもつようになれば、裁きを受ける(創2:17)
神はその代わりに人の子を遣わされたが、(ローマ5:15~16)
人の子は十字架につけられて死なれた(ルカ23:33)
これは火の蛇、悪魔に噛まれて死んだ人類のために
死の権勢をもつ者、火の蛇を木につけたのである(ヨハネ3:14~15)
木につけられた者は呪いを受けた者である
死の権勢をもつ者、悪魔は呪いを受けたのである
これはイエスが十字架で死なれたということである
その方の死は死を滅ぼし、律法を廃棄した(ヨハネ16:10)
聖霊によってその方と結びつくためにバプテスマを受けた(ローマ6:3)
○ イエスと結びついた者は罪と死に勝利した
聖霊によってバプテスマを受け、その信仰を体験した
イエスを信じる者は滅びないで、永遠のいのちを得る
○ イエスを信じない者はすでに裁きを受けた
それゆえ、肉体を離れる瞬間、地獄の使いとなる
悪霊が不信者の死後の存在であるというのは明白である
○ 律法を知って自分をアブラハムの子孫という者は
すべてアブラハムのふところに行き、そののちに
裁きを受けるが、彼らの復活は裁きの復活である
※ イエスの十字架の苦難は昔の話ではない
今もその方の苦難に結びつくためにバプテスマを受ける
イエスを信じるというのは罪と死から救いを受けるということである
【牧師コーナー(松竹岩) 】 2019. 3. 17 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私は聖楽教会を開拓するときから神本主義の信仰を基礎とし、「神の意図」という信仰と神学を完成したキリスト教会を設立しようとした。既存教団の信仰、神学、憲法、教理、規程は海外から宣教師が入って来る前から築いてきた伝統をもっている。それゆえ、彼らの主張を改革するのは絶対に無理である。
イエスは伝統であった律法や預言者を十字架で死ぬことによって廃棄された。そのように神は御子を遣わして十字架で死なせることによって伝統を絶ち切り、新しい契約の信仰、すなわち真理に導かれる。それゆえ、視無言シムオンも既存教団の神学校を卒業しながらも既存教団とは断絶された独立教会を設立した。
私は海外から流入してきた伝統、教理、憲法に従わないで、独立教会として独立した教理、信仰生活の規定をもとうとする。また、それによって教権に縛られないで、ただ聖書から流れる生ける水のような聖霊の導きだけを受けようとする。聖霊によってバプテスマを受けた者が主イエスの教会をなす。
教権、憲法、教理の人本主義理論に反対し、理想の代わりに、総会長や教団法の代わりに、監督として聖霊から与えられた霊感をもって牧会をする。それゆえ、監督の聖書解釈と教えは独立教会の信仰と主張である。さらに深い監督の霊感がなければならない。聖霊が働かれる教会が独立教会である。そのような教会が人々の意見を集めて人が願う方向に行こうとする人本主義を防ぎ、聖霊によって解釈された御言葉、真理に従っていく神本主義信仰の揺籃となる。
ある人は監督という職分は聖書にはないというが、それは偽りである。聖書は「聖霊が神の血によって買い取られた教会を牧させるために監督を立てられた。」といっている(使20:28)。もし教理、神学、憲法があるのならば、監督という職分は必要がない。聖霊が直接、働かれる霊感に従う監督が存在してこそ、独立教会が存在する。
ある人は聖楽教会から監督職をなくさなければならないと主張しながら教会を分裂させた。しかし、独立教会を導く監督がいないのであれば、既存教団の中に入って行くしかない。そのようになれば、人本主義信仰に後戻りしながら、ことさらに罪を犯すしかない。
視無言は監督である。視無言の主張の柱である「神の意図」信仰の道しるべは視無言である。それゆえ、視無言は息が絶える日までこの道にいなければならない。監督である視無言、視無言が主張する「神の意図」、独立教会として出発した聖楽教会はひとつとなるしかない。
私たちは神が血によって買い取られた霊魂のために独立教会を設立した。そして、聖楽教会を守るためにすべてが同じ心をもって殉教者の道を歩む。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室