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信仰は実状である
(へブル人への手紙11:1~6)

神は
ないものをあるもののように呼ばれる
その方が
祝福を御子に与えられたし、
アブラハムを祝福の根源とされた(創12:2)
アブラハムは
神の御言葉を受けて従った(創15:6)
信仰は実状である(へブル11:1~2)
アブラハムは十分の一をメルキゼデクにささげた(へブル7:2)
十分の一は律法ではなく、
アブラハムの信仰である
その十分の一は律法に従ってレビの分け前として与えられた
レビの十分の一は
神の家の 宝物倉 ほうもつぐら に納められた(ネヘミヤ10:38~39)
神の家の宝物倉に常に食物を備えるのであれば、
積むところがないほど注がれた(マラキ3:10)
それゆえ、私たちにも「試してみなさい」といわれた
神の御言葉は生きているし、実状である(へブル4:12)
その信仰は実状である(へブル11:1)
イエスも十分の一を強調された(マタイ23:23)
正義と憐れみと誠実をもってささげなさいといわれた
○ 私たちが信仰生活をするのは救いを受けるためである
また、この地でも信仰の報いとして祝福を受ける
信仰は霊的なものであるが、この地での生涯でも祝福を受ける
○ 十分の一と献金については「試してみなさい」といわれた
神を試してはいけないといわれたが、
祝福については「試してみなさい」といわれた
○ 信仰によって永遠のいのちに入って行くが、
信仰によってこの世で証しを受けなさいといわれた
祝福は信仰の証しである
※ 惜しみながらささげるのは
神を信じないためである
献身は信仰の実である

Semuon’s Letter

【牧師コーナー(松竹岩ソンチュグァム)】 2019. 6. 9 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東キムキドン牧師

勤労の初穂の刈り入れの祭りはイスラエルの祭りのひとつであり、紅海を渡ったイスラエルの民が荒野で初めて食物を収穫したことに感謝をささげる祭りである。彼らはそれまでエジプトで収穫したものをパロに上納していた。エジプトの地ではパロの前で奴隷として収穫していたのである。しかし、彼らは紅海でバプテスマを受け、荒野に出て来たのちに、初めて収穫したものを神にささげた。そして、これによって自分が自由になったこと、自由な者として祝福を受けたことを記念した。その日は祭りの終わりの日であった。イスラエルはその日を続けて記念してきたが、イエスもその日を「祭りの終わりの日」といわれた。その日が五旬節である。
五旬節は七週の祭りを終える最後の日である。この日、バプテスマを受け、この世から解放された自由な者は初めて収穫したものを神にささげた。これはバプテスマを受ける前にこの世で所得税を払っていたこととは異なり、ただ神に感謝をささげることであった。
この祭りでささげられる物は十分の一とは異なり、ささげ物としてささげられるものであり、自由な者の信仰告白である。バプテスマを受け、この世から出て来て神の国に属するようになったのであれば、はっきりと「神の恵みによって私は生きた。私の霊魂は生きた。」と証ししなければならない。恵みを受けたのちの生活を神の御前で見せなければならない。このような信仰告白は神が定められたものである。神は「私の民を行かせなさい。荒野で私のために祭りをさせなさい。」といわれたが、このように「今日、キリスト者はこの世から出エジプトして荒野で教会生活をしなさい。」といわれる。自由な者に注がれる聖霊を豊かに受けるために、これを記念して感謝をささげるのである。
神は約束された御言葉を成し遂げられないことがない。神は「十分の一とともにささげ物を私の家の宝物倉に備えてみなさい。試してみなさい。」といわれた。どんなにもどかしかったのであれば、そのようにいわれたであろうか。
神から与えられた信仰は実状である。フィクションではなく、実状である。神が契約として語られた御言葉は実状である。その実状を疑うのであれば、その人は続けて過去だけを追憶して、神を失望させる。私たちはバプテスマを受ける前にはエジプトでの生活を送り、パロに仕えていた。しかし、バプテスマを受けたのちには荒野での生活を送り、ただ神に仕える。
意味もわからないまま迎える勤労の初穂の刈り入れの祭り、すなわち五旬節は自分にとって何の益にもならないし、神の愛と関心を引くことができない。しかし、神の御心を知って守るのであれば、五旬節の聖霊の賜物や力が川のように流れる。これははっきりとした主の約束である。主はこの世を離れることについて実状を語られた。私は初めから神を信じて、そのまま従ってきた。それゆえ、今日まで聖霊に満たされてきた。すべての霊魂に生ける水の川が満ちあふれるように祝福する。

翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室

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