
信仰によって祝福を受けなさい
(ガラテヤ人への手紙3:5~9)
神は
祝福に満ちておられる
その方が
天地を創造して、それぞれに祝福を与えられた(創1:28)
祝福はただ造物主の権勢であり、愛である(申26:15)
神はアブラハムに祝福を命じられた(創12:1~2)
このときからアブラハムは祝福の根源となった
それは
律法によってではなく、信仰によってであった(ガラテヤ3:6~7)
神はアブラハムの信仰を義とされた(創15:6)
誰でもアブラハムの信仰をもつのであれば、
アブラハムとともに祝福を受ける(ガラテヤ3:8)
神を愛さない者には信仰がない(ヨハネ21:15)
信仰は従順によって現れる(創22:16~17)
神がアブラハムに
「あなたが愛する子を私にささげなさい」と命じられたときに、
アブラハムはこれに従って、ひとり子をささげた(創22:2)
宝があるところに心もあるという御言葉のように、(マタイ6:21)
アブラハムのひとり子はアブラハムの全財産であった
自分の霊、魂、体をすべて注ぎ出した財産であった
アブラハムは神を愛して自分の全財産をささげた
○ 愛とは自分の霊、魂、体をすべてささげるものである
このようにするのが従順であり、信仰である
惜しむのは愛がないためである
○ 誰が命を尽くして、力を尽くすのか?
神を愛する者である
自分の命をささげたイエス・キリストはその鏡でおられる
○ 信仰があるといいながら行わないのであれば、
その信仰は死んだものである
イエス・キリストは信仰の模範であり、主でおられる
※ イエスによってその義を受け、
神に出て行かなければならない
聖霊はこのような者に感動を与えて導かれる
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 11. 10 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
愛するベレヤ人よ! 私たちがこの世に勝利するのはいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する生活によってである。
ある人はこの世に生まれたときに、この世で国と力と栄光を得て「偉大な者」という称賛を受けるために大げさな名をつけたりする。それに対する望みも並大抵のものではない。しかし、「人間はこの世に何ももたずに生まれ、何ももたずに去って行く。」という言葉のように、結局、何歳で死んだとしても手に何ももつことなく汚い土の中に埋められてしまう。
土は死であり、よみであり、墓である。イエスはこの世に生まれたときからすでに十字架で死ぬことが予定されていた。その方はこの地に来て誰かから仕えられたこともない。生まれた瞬間からヘロデによって殺されそうになった。また、親戚からも迫害を受け、捨てられ、同族によって殺された。十字架で死ぬときに叫ばれたその方の絶叫はこの世から捨てられたという絶叫であった。その方は「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか?」といい、そして、「完了した。」と宣言された。
その方が完成された公生涯はどのようなものであったのか? この世の人々がうらやましがるものであったのだろうか? そのように呪いを受けたのちに死にたいと考える者がいるであろうか? イエス・キリストの死と生涯はこの世の人々が最も嫌い、避けようとするものであった。その方は慕い求める者に「私について来たいと思うのならば、自分の十字架を負って私について来なさい。そうでなければ、私にふさわしい者ではない。」といわれた。
イエスははっきりと「この世で栄光を得ようとする者は私にふさわしくない者である。」といわれた。私たちがバプテスマ人となったのは宇宙というよみから解放され、天に属する者となるためであった。宇宙というよみは望みがないところである。一度、死ぬことは定められたことであるし、そののちには霊魂が裁きを受けなければならない。その恐ろしい裁きから救ってくれる者はこの世にひとりもいない。この世は死の権勢の下にあり、互いに葛藤をもち、殺し、死ぬしかない。
私たちの望みはこの世にではなく、天にある。天には国と力と栄光が永遠にある。これを与えるために待っているのがイエスでおられる。その方はこの世に来て呪いと死の待遇を受けたのちによみがえって天に上られた。その方はこの世で殺されたが、汚い墓ではなく、金持ちの墓に葬られた。呪いを受けたとしても、幸せな墓を得られた。
私たちの望みはこれではないだろうか。腐敗に満ちた墓ではなく、幸せな金持ちの墓のようなパラダイスが私たちを待っている。主は必ず私たちをそこに連れて行ってくださる(ヨハネ5:24~29)。私の外なる人は迫害や呪いの下にいたとしても、私の霊魂は幸せな金持ちの墓で眠り、そこで主を待ち望む。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室