神の選びを見なさい
(コリント人への手紙第一1:26~31)
神は
正しい方でおられる
その方が
なさることは永遠の前から隠されてきたが、
すべてその御心通りになされている(エペソ3:8~11)
アダムも選ばれた者であり、(創2:7)
アブラハムも選ばれた者であり、(創12:1~2)
モーセも選ばれた者である(出7:1~2)
しかし、
救いは天から遣わされた
イエス・キリストによる(ヨハネ6:48~51)
神はイエスの名によってバプテスマを受け、(使2:38)
イエスの血によって罪の贖いを受け、(ヨハネ6:53)
聖霊を受けた者を選ばれる(使1:8)
律法の下にいる者は消極的な戒めに従うし、
恵みと真理の中にいる者は積極的な戒めに従って
霊魂の救いに全身全霊をささげる(ヨハネ15:8~11)
律法の下にいる者は自分の義を立てることに
全身全霊をささげる(マタイ5:20)
恵みの福音を伝える者は
神の義を伝えることに全身全霊をささげる(黙20:4)
これが新しい戒めである
新しい戒めは愛しなさいというものである(ヨハネ13:34~35)
○ 律法の下にいる者は自分を正しく見せようとするが、
新しい戒めを受けた者は他の人の霊魂のために
イエスとともにいけにえの供え物となる
○ このために選ばれた者を見なさい
自ら誇るものがあるだろうか
○ 神に選ばれた者を見なさい
十字架を負った者のようではないか
※ この世のものを誇らないで、
神から与えられた恵みを誇り、
選ばれた者としての道理を尽くそう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 12. 08 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
花が咲いては散り、緑が空の雲を覆っては落ちる。そのようなさびしい空の壮観を見ながら、歳月を感じる。私が生きている理由は何であろうか? すべきことは何であり、できることは何であろうか? 私を抱いていたこの世は私を放そうとしている。それでも、私がしてきたことは終わらないし、続いていかなければならない。それを続けていくのは聖楽教会の還言ベレヤの使命者である。
木の葉が落ちた間から少しずつ見えてくる雲が私の涙を誘う。生涯、ただひとつの道を歩んでくる間に皮膚が裂けて膿んだ足を洗おうとする。それが私を悲しませる。さらに続けることができるのであれば、続けたい。私はそれを愛してきたし、それに感謝してきた。私の後に続く者は「金箕東」という名を忘れたとしても、「視無言」という号だけは忘れてはいけない。続けて覚えくれることを願う。
生涯、視無言でなかったのであれば、どのようにして耐えることができたであろうか? 私は自分に与えられたこの哲学に感謝する。誰が死を喜ぶであろうか? 死んでこそ、なすことができるという使命感のために、私はこれまで耐えてきた。私のような小さな者にこのような大きな職分を与えてくださった神に感謝をささげる。私がその道を進むことができるように道を開いてくださった主イエスに感謝をささげる。そして、私の中におられ、感謝をもってこの険しい道を進むことができるように働いてくださった助け主の聖霊の導きに感謝をささげる。
私には恥ずかしいところも多い。しかし、自分に預けられた道を進んで行く私の姿は恥ずかしくない。小さな体に聖霊の働きや力が臨み、真理が臨み、生涯を送ってきたことに感謝する。生涯、一度も説教することを恐れたり、何を語ろうか、何を証ししようかと悩んだりしたことがなかった。そのようにしてくださった助け主の聖霊に感謝をささげる。
神が私にさらに多くの時間と資格を与えてくださるのであれば、100年でも1000年でも真理の泉が絶えず湧き出てくるであろう。私は自分が知ること、信じることだけを証ししてきた。聖霊の感動なしには講壇に立たなかった。愚痴を言おうとして講壇に立ったことはなかった。ただ真理の御言葉を証ししようとしてきた。そのように過ごしてきた歳月が次第に思い出に変わっていく。
私の悪口を言うことによってすっきりとするのであれば、いくらでもそのようにすればいい。それは私の霊魂を沈没させることはできない。そのようにするのが祝福であると考えるのであれば、それは誤解である。祝福は祝福する者にだけ臨む契約である。ある人は私が大きな教会を担任することをうらやんだり、ねたんだりするが、この職分はそのようなものではない。国と力と栄光はただ父なる神にだけ永遠にある。私はそのしもべとして死ななければならないことにも感謝する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室