友の霊魂を愛しなさい
(ヨハネの福音書15章1~15節)
神は
農夫でおられる
その方が
天でなした御心をこの地でもなそうとして、
御子をこの世にまかれた(マタイ6:10)
イエスは自分をぶどうの木にたとえられた
これは実を多く結ばせるためであった(ヨハネ15:1~2)
実を結ぶためには枝が木についていなければならない
枝が木についていなければ、枯れてしまい、
実を結ぶこともなく、滅んでしまう(ヨハネ15:5)
実とは霊魂を救うことである
霊魂が多くの弟子を作ってこそ、神が栄光を受けられる(ヨハネ15:8)
霊魂が弟子を作らなければ、投げ捨てられる(ヨハネ15:6)
ぶどうの木が農夫の考えや期待通りになるように、
私たちの信仰はただ
神の御心通りに御子が栄光を受けられたように、
神の御心に従って主の御心通りにならなければならない(ヨハネ15:1)
イエスの弟子はイエスの戒めを守る
イエスの戒めに従って霊魂を救う者は(ヨハネ15:10~11)
イエスの愛の中にとどまり、イエスの喜びに満たされる
霊魂を救う伝道者はひとりで働くのではない
神が働かれるし、御子が樹液を供給される
聖霊によってその働きがなされる(ヨハネ15:16~17)
○ 神の御心通りになさった方がキリストである
イエスの御心通りに信じる者がイエスの弟子である
○ イエスの戒めは霊魂を救うことである
友の霊魂を生かさない者は戒めを犯した者である
○ 神が喜んで栄光を受けられるのは霊魂を救うことによってである
それゆえ、自分の実として霊魂を豊かに救わなければならない
信仰の喜びは霊魂を豊かに救うことである
※ 霊魂を救おう、信仰を注いで霊魂を救おう
私の信仰は恵みと真理である
恵みと真理によって友の霊魂を救おう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 02. 23 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私が「ベレヤ」に命をかけるのは、そして、聖楽教会が私のように「ベレヤ」をつかもうとするのはどうしてであろうか? 誰かに尋ねてみよう。長老や牧会者に尋ねてみよう。私たちの教会の存在価値、正体を理解したうえで教会を再建したり守ったりしているのか、調べてみよう。
「ベレヤ」に「還言」という単語をひとつ加えると、「還言ベレヤ」となる。これは「神の意図」を理解して主張する信仰とその生活の中心を意味する。現在のキリスト教神学は聖書をどのように理解しているのであろうか?
現在のキリスト教神学は創世記1章から11章までを神話と考える。韓国の建国神話は唐辛子とヨモギに耐えて虎に勝利した熊が人となって檀君を生んだという。それが『三国遺事』に書かれ、高麗時代から建国史とされたが、そのように現在のキリスト教神学も創世記1章から11章までを神話と考える。そして、続けてイスラエルの建国史をアブラハムからモーセ、預言者の橋渡しと考え、イエス・キリストを語る。これは聖書信仰の根本から堕落しているというしかない。
しかし、ベレヤが「神の意図」で主張したように、永遠の前から自らおられる神は霊でおられるし、御言葉がその中にともにある。それゆえ、その御言葉が神でおられる。神の御言葉は「ロゴス」といい、生きている実体でおられる。それを信じるのが私たちの信仰である。創世記1章から11章までを神話と考えないで、神が語られた御言葉と信じなければならない。創世記1章から11章までを「預言者が遠い未来を見たように、モーセが過去を初めから見て知った。」という証しと考えなければならない。
このように創造原理を中心として初めと終わりがひとつとなる。私たちはそれを疑わず、また、将来の永遠のいのちの復活の真理を確信した。それゆえ、聖書の御言葉が力、いのち、権威ある教訓であると主張し、力の普遍性を強調し、信仰を宗教と区別するのである。
イエスはペテロに「下がれ。サタン。あなたは私を邪魔する者である。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られた。そのように神の義の御言葉から少しでも離れれば、神の敵であるサタンとなってしまうということを肝に銘じなければならない。
「キリスト教会は神話が生んだ宗教ではない。生きている神は今も自分の働きをしておられる。」ということを確信し、信じ、従い、伝え、教えるのが「ベレヤ」である。どうしてベレヤのために命を差し出さなければならないのかをもう一度、考えよう。
神の御言葉はイエス・キリストでおられる。イエス・キリストは神話から出て来た方ではなく、造物主であり、いのちの霊であり、神のふところから出て来た神でおられる。私たちの信仰の根本が神話であるのか、あるいは実状であるのか。それが霊魂の生死をわける基準となる。それで、私たちをベレヤ人という。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室