2021. 08. 29. 神の国を見る者 (マルコの福音書9:1~8)

神の国を見る者
(マルコの福音書9:1~8)

神は
霊であり、目に見えない方でおられる
しかし、
御言葉が肉体となって来て、
父なる神を見せた(ヨハネ14:9)
イエスをアブラハムの子孫、ヨセフの子と見るのであれば、
神の国が力をもって到来するのを見ることができない(マタイ13:55)
神のふところから出て来られた神の御子と見るのであれば、
神の国が力をもって到来するのを見る(ヨハネ3:16)
弟子たちはイエスがよみがえって天に上られたのを、
また、五旬節に聖霊が臨まれたのを目で見たが、(使2:1~4)
悪魔のしもべとなったイスカリオテ・ユダは見ることができなかった(ヨハネ13:26~27)
イエスに口づけをしながらも、(マタイ26:48~49)
すでに悪魔の惑わしに陥っていたために、栄光を見ることができなかった(ヨハネ13:1~2)
聖霊が臨まれたというのは
神の国が来たということである(マタイ12:28)
聖霊を受けた者から神の国の力が現れる
その力の前で悪霊が追い出されて出て行く
聖霊を受けた者は聖霊の人となり、
殉教者となり、第一の復活の栄光を見る(黙20:4~5)
聖霊によって神の国が来た者はその約束を受けたのである(Ⅱコリント1:21~22)
○ イエスの弟子の中にも栄光を見ることができないで
滅んだ者がいた
聖霊に逆らうのであれば、この世でも次に来る世でも赦しを受けることができない
○ 望みをしっかりと告白して、自分を守らなければならない
悪魔の惑わしに陥ってはいけないし、試みに遭ってはいけない
ことさらに罪を犯す者は裁きを受ける
○ 神の国が力をもって到来するのを見た者は
パラダイスに行く
見ることができなかった者はアブラハムのふところに行く
※ 最後は善悪の間で裁きを受ける
聖霊は人の性格に従って受けるのではない
絶対的に従って服従することによって受ける

 

2021. 08. 22. 自分を捨てて従いなさい (マルコの福音書8:27~38)

自分を捨てて従いなさい
(マルコの福音書8:27~38)

神は
生きているまことの方でおられる
その方は
自分のふところにおられた御子をこの世に与えられた(ヨハネ1:18)
御子の命までこの世に与えられた(ヨハネ10:11)
イエスは
自分の力によってではなく、(マルコ15:34)
父なる神の御心に従って、私たちの救い主となられた(ヨハネ6:38~40)
神の御心は血と肉によっていのちと永遠のいのちを与えるということであった
そのためにイエスは肉体をもってこの世に来て、死なれた(ヨハネ1:36)
人として来た方が自然寿命を選ばないで、
刑罰を受けるべき人類の代わりに刑罰を受けて死なれた(Ⅰペテロ2:24)
イエスの苦難には自分の意志がひとつもなく、(マルコ1:12)
神の御心だけがあった
誰でも主に従うためには自分を捨てて、
自分の十字架を負って、従わなければならない(マタイ16:24~25)
神の御心を拒めば、サタンとなる
堕落して、主イエスに再び会うことができなくなる(マタイ16:23)
イエスは戒めとして苦難を受けられた(ヨハネ10:18)
私たちの信仰は戒めに従って生きるものである
自分を捨ててこそ、従うことができる
○ イエスのために受ける苦難を喜びと考えなければならない
私たちはバプテスマを受けることによって戒めを受けた
バプテスマを受けた者は自分の命をもたない、主のものである
○ 十字架を負って進む道は苦行の道ではない
神の御心に従う道である
戒めとして受けた苦難には恵みだけがある
○ 主に従う門は狭い門である
その道は第一の復活という目標に向かって進む険しい道である
聖霊は私たちが殉教者となるように働かれる
※ 人の考えはサタンの考えである
肉の考えは主の敵となる
主イエスを愛して、それぞれ自分の十字架を負って従おう

2021. 08. 15. まだ悟らないのか (マルコの福音書8:14~21)

まだ悟らないのか
(マルコの福音書8:14~21)

神は
創造者でおられる
その方は
ないものをあるもののように呼び、(ヨハネ21:5~6)
死んだ者を生かす方でおられる(ヨハネ11:42~44)
私たちはその方を信じる(マルコ9:23)
イエスは弟子たちの前でしるしを行われた
5つのパンをもって5000人を食べさせ、(マルコ6:44)
7つのパンをもって4000人を食べさせ、残りを
それぞれ12のかご、7つのかごに取り集められた(マルコ8:8~9)
これは神だけがすることができる働きであったが、(創1:1)
イエスがこれをなさった
これを見て、イエスが神でおられるということを悟らないのか(ヨハネ14:11)
どうしてパンがないといって議論するのか
イエスは父から権勢を受けられたし、(マタイ28:18~20)
信じる者は主からその権勢を受けた(マタイ10:11)
信仰をもってイエスを心に迎え入れたのであれば、
神の子とされる権勢を受けたのである(ヨハネ1:12)
神の子とされる権勢をもち、その名を迎え入れたのであれば、
パンがないことを心配する必要はない
5つのパンと2匹の魚の霊感をもつのが信仰である(マルコ16:17~20)
○ どうして悟らないで心配するのか
イエスを信じるといいながらも、心に迎え入れないで、
疑い、宗教人となるのであれば、何も受けることができない
○ 主を心に迎え入れるのがそれほどむずかしいことであろうか
信じる者は主とひとつとなった者であり、
神の働きをする者である
○ 神だけがすることができる働きを見たとしても、悟らないで、
自分には何の権利もないと考えるために、
自分の義によって義なる者となろうとする
※ ヘロデやパリサイ人は偽善者であった
神と自分の義を別々に考える者であった
イエスは信じる者に「このようなパン種に気をつけなさい」といわれた

2021. 08. 08. ガリラヤでのイエスの力 (マルコの福音書7:31~37)

ガリラヤでのイエスの力
(マルコの福音書7:31~37)

神は
愛でおられる
その方が
初めからこの世に関心をもたれた(詩51:16~17)
ガリラヤで神の御子を現された(マタイ3:17)
バプテスマのヨハネはモーセの律法と預言者の最後であり、(マタイ11:13~14)
初めの契約の終わりと新しい契約の初めの
証人であった(ヨハネ1:6~8)
ガリラヤはバプテスマのヨハネが最後に働いた地であったし、
イエスが最初に働かれた地であった
それゆえ、律法と福音が交差するところであった(ヨハネ1:29~34)
律法と預言者の終わりとなるバプテスマのヨハネは(マタイ11:14、マラキ4:5)
ガリラヤで首をはねられ、終わりを迎えたが、
このときからイエスの伝道が活発となった
イエスは耳が聞こえず、口のきけない者を群衆から連れ出し、
両耳に指を差し入れ、つばを吐き、その人の舌に触られた
そして、「エパタ!」、すなわち「開け!」といわれた(マルコ7:34)
その人の耳は開き、舌のもつれは解けた
その人の姿は律法と預言者の時代の民の姿であった
耳があっても聞くことができず、舌があっても伝えることができず、(ローマ11:8)
律法と預言者の霊的なものを知ることができなかった(へブル8:13)
○ 力とは? 指という意味である
イエスの力がその人の耳に入って行った
イエスのつばは主の舌から出て来た
○ 異言とは? 主から与えられた舌という意味である
主イエスのときから全世界に福音が伝えられ、
神の御言葉が聞こえるようになった(ヨハネ6:68)
○ 「エパタ」とは? 「開け」という意味である
語ってはいけないといわれても、語らないわけにはいかない
恵みの福音は抑えることができない力である
※ 霊的な者ならば、口を開かなければならない
恵みを受けた者には抑えることができない口の証しがある
信じる者は御言葉を聞くことができなければならない

2021. 08. 01. 子どもたちのパンを (マルコの福音書7:24~30)

子どもたちのパンを
(マルコの福音書7:24~30)

神は
恵み深い
その方が
自分だけがもつ永遠のいのちをこの世に公開し、(ヨハネ3:16)
選ばれた民にまず現そうとされた(ヨハネ17:3)
神はイスラエルに律法と預言者を与えられた(出3:10~12)
イスラエルを自分の民とし、聖くされた(出19:6)
イスラエルはエホバの助けを受け、(出19:4~5)
モーセを通して与えられたパンを食べ、岩から出て来た水を飲んだ(ヨハネ6:50)
そのとき、異邦人はエホバの関心を受けることができなかった
エホバはイスラエルの神であった(出3:14~15)
律法の下にいるイスラエルは必ず裁きを
受けるが、(へブル9:27)
イスラエルに裁きを受けさせないために(ヨハネ3:17~18)
イエス、救い主がイスラエルの地に来られた
これは律法と預言者の下にいるイスラエルを救うためであった(マタイ10:5~8)
イエスは公生涯で初めてツロの地方に行かれたが、
そのときはまだ異邦人に福音が許されていないときであった
それゆえ、イエスは子どもたちのパンを小犬に与えることはできないといわれた
イエスがよみがえられたのちに初めて弟子たちを通して
聖霊によって異邦人の地にまで福音が伝えられた
○ イエスはエホバの限界を超え、
エホバの手が届かなかった異邦人に福音を伝えられた
聖霊はイスラエルとそれ以外の全人類に
福音を証しされる
○ 神の子となれば、神の子の栄光を見る
聖霊によって悪霊を追い出せば、その国が来たのである
○ 福音を伝えて悪霊を追い出すのは義務である
主イエスが信じる者にこのような力を義務として与えられた
主イエスが天でともに働き、ともに証しされる
※ 信じる者は神の子である
子であれば、神の栄光を常に見る
無能な信仰生活をしないで、実状をもたなければならない