2021. 10. 31. イエスの権威 (マルコの福音書11:27~33)

イエスの権威
(マルコの福音書11:27~33)

神は
権威と力でおられる
その方が
この世に御子を遣わされたが、御子は御言葉でおられる(ヨハネ1:1)
御言葉は永遠の前から
神とともにあったのちに現れた、(ヨハネ1:18)
神でおられる
イエスは人の子と呼ばれるが、人々はその方を人間と考える
イエスは神の御子と呼ばれるが、人々はその方を霊と考える(マルコ4:41)
しかし、
その方は霊でも人間でもなく、人でおられる
インマヌエルとしてこの世に来た方でおられる(マタイ1:21~23)
それゆえ、
神のように自然を超越したりもするし、(マルコ4:39~41)
人のように自然に抑圧されたりもする(Ⅰペテロ2:24)
私たちはその方を誰と信じるのか(マタイ3:17)
この世は
イエスを、自然を超越する超能力者と考えたり、
人と同じ人間と考えたりする
しかし、信じる者はどちらにも同意しない
「イエスは天におられる神であり、(ヨハネ20:31)
地におられる人である」と信じる
○ 聖霊はこれを証しされる
聖霊は真理の霊でおられる
○ 私たちは天に属した神の子であり、地に属した人である
2つの身分をもつ
しかし、肉の思いは死であり、霊の思いはいのちである
○ 主を誰と信じるのかによって
神の子、相続者にもなるし、
堕落した者、地獄の子にもなる
※ それゆえ、信じることを拒まないで、
その方が神でおられると信じなければならない
信仰によって神の子となり、永遠のいのちを得る

2021. 10. 24. イエスといちじくの木 (マルコの福音書11:12~14)

イエスといちじくの木
(マルコの福音書11:12~14)

神は
御子のために万物を造られた
その方が
御子をこの世に遣わされたが、御子がこの世にいる間に(へブル1:1~2)
用いるように、万物を予め備えられた(マルコ11:3)それゆえ、万物は御子が来られるときを待っていた(マルコ11:13)

そして、御子が天に上られたのちには人類が用いるように

配慮がなされ、保たれている(Ⅰコリント9:4~11)

イエスの目的地はエルサレムであった(マルコ13:31~33)

イエスはそこに行く途中で空腹を覚え、いちじくの木を見つけた

その木には実がなかった

これを「熟していないいちじく」、「タクシュ」といったが、これは

「風に耐えることができないいちじく」という意味であった

万物の寿命は主がこの世に来られるときまでであった

イエスが去られたのちに万物の時は終わった

万物はそのときから福音が働くときのためのものとなった

主がいつ来られるのかを知ることはできないが、(ヨハネ4:10)

常に準備していなければ、

主と関係がない者となってしまう

主が腹を立てたために、木が枯れたのではない

木の寿命が終わったのである(マルコ11:14)

○ 神が用いられなければ、

木のいのちは終わる

自分の命も財物も自分のものではない

○ 主が来られるのを待ちくたびれたとしても、

反復して実を準備しなければならない

主が来られたときに、「タクシュ」となってはいけない

○ 「タクシュ」のように

この世の試みに勝利することができなければ、何の役にも立たない

呪いを受け、永遠に枯れてしまう

※ 試みに勝利することができない「タクシュ」となってはいけない

この世で風が止むことはない

試みは常に存在するために、力を受けて勝利しなければならない

2021. 10. 17. 主が用いるといわれた (マルコの福音書11:1~10)

主が用いるといわれた
(マルコの福音書11:1~10)

神は
万有の主人でおられる
その方が主人でおられるために、
その方が万有を用いるときに逆らうことができる者はいない(詩100:3)
人間の大きな弱点はこの地で自分がすべてのものを
所有する主人であると誤解するところにある(マルコ10:21)
主人はただひとりの方であり、全能な造物主であり、
神でおられる
神は生きていて実在する方であり、父でおられる
イエスは父の御心を行うために来られた(ヨハネ6:37~40)
神から命じられた働きをするために戒めとして来られた(ヨハネ10:18)
神の御言葉は神の戒めである(ヨハネ12:47~50)
神の戒めが肉体となって来られた(ヨハネ1:14)
それゆえ、
イエスがおられたところと行かれたところでは
神の戒めが現れた(ヨハネ8:21~23)
主が用いるといわれたのであれば、逆らうことはできない(マルコ11:3)
私たちの信仰はこの真理を悟るものである(使17:23~25)
ろばの子のように無能であったとしても
主が用いるといわれたのであれば、逆らうことができない
聖霊によって謙遜にその御名にひざまずき、従わなければならない(ヨハネ3:8)
○ 神に用いられなさい
命であっても、子どもであっても、物質であっても、
その方が用いるといわれたのであれば、用いられなければならない
○ 口では「主人でおられる」といいながら、
自分のものであるといって逆らうのであれば、不信仰である
むしろ「主よ! 私を用いてください」と願わなければならない
○ 神が主人でおられるのか、自分が主人であるのかをはっきりとさせなさい
金持ちが天国に入って行くことができないのは
自分が主人であるかのように振る舞うためである
※ 「主よ! 私を召してください
主よ! 私を用いてください
この世には自分のものはなく、あなたのものだけがあります」といいなさい

2021. 10. 10. 信仰が救う(マルコの福音書10:46~52)

信仰が救う
(マルコの福音書10:46~52)

神は
全能でおられる
その方が
御言葉をこの世に遣わして成就された(Ⅰヨハネ1:1~3)
イエスの名は天で最高の財産である(ピリピ2:9)
イエスの名は数億万の不義に勝利する完全な名であり、
全能者の名である(マタイ1:21)
天の名であり、ひとり子の栄光である(ヨハネ1:14)
この名には不可能なことがない(ヨハネ14:13~14)
聖徒がこの名を心に迎え入れれば、
神の子とされる権勢をもつ(ヨハネ1:12)
盲人は何も見ることができなかったが、
その名を耳で聞いて呼んだ(ローマ10:17)
周囲から聞こえてくる惑わしの声に勝利して、
イエスの名を呼んだ(マルコ10:47)
盲人は自分がどうしてその名を呼ばなければならないのかを知って、
その名を呼んだ
自分の問題に対する答えがただその名にあると信じて、その名を呼んだ
イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されると、
盲人の生涯の願いは成就した(マルコ10:52)
聖霊は私たちの弱さを助けるために常にともにされる(ローマ8:26)
○ 神に出て行く者は哀れな姿を見せないで、
信仰を見せなければならない
信仰は神が求められるものであり、天国の鍵である
○ 自分が助けを求める理由をはっきりと知って、
イエスの名をあがめなさい
イエスはそのような者を救うために来られた
○ よみという宇宙の中にはない栄光がイエスにだけある
その名にだけある
イエスの名にひざまずいて、その栄光を見ようとしなさい
※ 主イエスはこの世に来て、信じる者を探される
物乞いをする者ではなく、
イエスの名の力を信じる者を探される

2021. 10. 03. 神だけができる (マルコの福音書10:23~31)

神だけができる
(マルコの福音書10:23~31)

神は
良い方でおられる
その方が
なさることはすべて良いことである
祝福も恵みも愛も力も良い御心である(ローマ12:2)
富、誉れ、権勢、栄光はただその方にある(マタイ6:13)
人々は良いことを行おうと努力するが、(マルコ10:17)
良い方はひとりでおられる
天におられる神だけである(マルコ10:18)
何をすれば、天国に入って行くことができるのか
人間にできることはない(マルコ10:23~25)
金持ちの財産によっても、
人の義によっても天国に入って行くことはできない
神だけができる(マルコ10:26~27)
それゆえ、
神の方法に従って信じ、
この世の国と権勢と栄光をすべて捨てた者は
この世で祝福を100倍、受ける
迫害とともに受ける(マルコ10:28~30)
そして、のちの世で永遠のいのちを受ける
このために聖霊が私たちの中に入って来られた
○ 神が御子をこの世に遣わされたのは
天に行くことにおいて障害となるものを取り除くためであった
神はイエスの名を相続の証しとして与えられた(へブル1:4)
○ イエスを知らせて信じさせる聖霊は真理の霊でおられる(ヨハネ16:13)
イエスが真理でおられる(ヨハネ14:6)
○ イエスによってだけ天国に入って行くことができる
イエスを主人として迎え入れなければならない(ヨハネ14:10)
そうすれば、イエスとともに迫害を受け、祝福を受ける
※ 人が自ら入って行くことができない天国の門を
イエスが開かれたので、その方が門でおられる
この世の重荷をすべて下ろしてこそ、その方とともに入って行く