尊い血といのち
(ヨハネの福音書6:52~59)
神は
生きていて自分の働きをなさる
その方が
御言葉を遣わして、約束した働きをなさる(使1:4~5)
御子を通して見せた約束を必ず成就される
それゆえ、
「私の肉を食べなさい」といい、
また、「私の血を飲みなさい」といわれた
主イエスの肉を食べれば、永遠のいのちを得る
主イエスの血を飲めば、いのちを得る(ヨハネ6:53~55)
どんなに敬虔であったとしても
イエスの功労を受けなければ、救いを受けることはできない
それが私たちの信仰である
私たちはイエスの肉を食べ、イエスの血を飲む
人が食べたり飲んだりしてこそ生きるように、
イエスが自分の中で信仰の体験とならなければならない
言ってみれば、
イエスを信じるというのは自分が信じるものをこの世に
伝えなければならないという命令である
聖なる肉を食べ、聖なる血を飲むというのは
伝えるということである(Ⅰコリント11:23~27)
○ 宗教人のように聖餐を儀式として
行ったとしても、それは信仰ではない
信仰は伝えることである
○ イエスの肉と血が自分の中にあるのならば、
伝えなければならない
聖霊を受けて伝えなければならない
○ 教理を行うことにはいのちがない
聖餐は従順である
主が来られるときまで伝えなければならない
※ 主の御言葉を学んだとしても、
行わなければ、不従順であり、不信仰である
行いが従順であり、信仰である
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 11. 03 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私たちの救い主、イエス・キリストは「私を見なさい。」といわれる。そして、自分を見た者の霊魂を愛して、その病気を癒される。イエスを見た者は足がなえていたとしても起きて寝床をたたんで家に帰る。どうしてイエスは「見なさい」といわれたのであろうか?
聖書は「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」といった。私たちはそのようなイエスの愛を受けなければならない。主を愛する者は裁きを受けないで、永遠のいのちを得る。しかし、主を見ないで目を他のところに向ける者はすでに裁きを受けた。裁きを受けた霊魂はどこに行くのであろうか? 肉体を離れる瞬間、その霊は他の現象として現れる。これは私がこれまで多くの病人や抑圧を受けた者から発見したことである。
私たちは古い生活から離れるためにバプテスマを受け、イエスだけを見て従う。どうして主イエスを見ないで、イエスに用いられるそのしもべを見るのであろうか? これは宗教的な信念である。宗教は人中心であり、道徳や倫理に力を集中する。人の義を得るために、あらゆる努力と誠意を尽くす。しかし、神本主義信仰はバプテスマを受けることによって人の義を完全に捨てて神の義にだけ従おうとする。
人の義を無視するのではない。尊重するし、信仰人の基本と考える。しかし、人は律法によって罪人となったのではなく、律法が来る前にすでに罪人であったし、死に支配されていた。律法は死んだ者に「どうして霊が死んだのか?」を再び悟らせる。
人は良心によって罪人となったのではない。良心をもつ前にすでに人は義人ではなかったし、聖なる者ではなかったし、神を探す者ではなかった。それゆえ、自ら救いを受ける者はひとりもいない。それで、信じない者を罪人という。罪人は死の下にいる。その霊魂の未来はすでに決まっている。
死ぬしかない罪人は救いを受けるために主イエスの功労を頼る。主が救わなければ、誰もいのちや永遠のいのちを得ることができないし、ただ地獄の火を待つ。それゆえ、主イエスは「私を見なさい。」と命じられる。これが神本主義信仰である。
人を見たりこの世を見たりする者は主イエスと関係がない。この世を見る者はイエスをただナザレのユダヤ人と認めるが、主イエスを見る者はその方を神の御子、神から遣わされたキリストと認める。主イエスだけを見なさい。これが信仰である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室