2021. 03. 28. イエスの弟子 (マルコの福音書3:13~19)

イエスの弟子
(マルコの福音書3:13~19)
神は
国と力と栄光の主人でおられる
その方が
自分の栄光を見せるために
自分のかたちとして人を造り、(創1:26~27)
啓示の霊を与えて、聖くされた(創2:16~17)
しかし、
人は悪魔の惑わしに陥った祖先が堕落することによって
神と断ち切れてしまい、(創3:9~10)
その霊魂は裁きを受けるようになった(へブル9:27)
しかし、神の愛は人類に福音を与えた
神は「インマヌエル」として特別啓示を遣わし、(マタイ1:21~23)
人がイエスから啓示を受けることができるように(ヨハネ14:12~14)
イエスの弟子を召された
イエスの十二弟子はイスラエルの十二部族のように
選ばれた働き手であった(使1:2)
イエスは彼らを身近に置き、(マルコ3:13~15)
ともに福音を宣べ伝えさせ、
悪霊を追い出す権威をもたせた
そして、
この世での働きを終えて天に上るときに、
天の権威を与えられた(マタイ28:18~20)
イエスの弟子が聖霊の導きを受け、
キリスト教会の大きな柱となった(黙21:14)
○ イスカリオテ・ユダの代わりにマッテヤが弟子に加えられたように、
今日、教会はイエスの弟子である
○ 消えたダン部族の代わりにマナセが十二部族に加えられたように、
今日、教会はイエスの弟子として立てられた
○ 主の弟子は主とひとつの体であり、主と生死をともにする者、
主を愛する者である
※ イエスの弟子を自称したとしても
イエスとともに歩まないのであれば、宗教人であり、偽善者である
イエスの弟子は召された目的に従わなければならない

2021. 03. 21. イエスの働き (マルコの福音書3:1~12)

イエスの働き
(マルコの福音書3:1~12)

神は
天地を創造された
その方が
自分の働きをすべて終え、第七日目に休まれた(創2:2)
安息日は造物主を覚える日である(申5:13~15)
安息日の次の日である主日は恵みの主を記念する日である(ヨハネ20:1~9)
安息日に働くことは禁じられたので、それを守らなければならなかった
安息日に働ければ、呪いを受けた(民15:32~36)
イエスは安息日について解釈されたが、
人を生かす働きまではやめさせなかった
聖日は人を生かす日である(マルコ2:27~28)
イエスは安息日の主人であり、聖日にも主人でおられる
主人でおられる方の使命は救いの働きである(マルコ3:3~5)
イエスの名はすべての人を救う名である(マタイ1:21)
私たちは聖日を聖く守る者である
主は聖日にすべきことを教えられた
それは霊魂を救い、病気を癒し、抑圧された者を自由にすることである
イエスの福音は恵みの福音である(マルコ1:1)
聖霊の働きは力としるしの働きである(使1:8)
聖日にすべきことは救って生かすことである
主日は主の御心通りにしなければならない
○ 安息日という誤解を解いて働きなさい
神の御心に従って熱心に働きなさい
霊魂を救い、癒し、恵みを受けさせなさい
○ 安息日を言い訳にして働かないのは罪悪である
むしろ聖日を犯すことである
イエス・キリストを現して栄光をささげなさい
○ 主日は五旬節の姿である
聖霊に満たされ、この世に裁きを知らせなさい
信じる者は救いを受け、信じない者は滅びるということを知らせなさい
※ 宗教人は「どのようにして
イエスを殺そうか」と相談する
教会では聖日が力ある祭りとならなければならない

 

2021. 03. 14. 安息日と聖日 (マルコの福音書2:23~28)

安息日と聖日
(マルコの福音書2:23~28)

神は
聖なる方でおられる
その方は
栄光を受けるべき唯一の方であり、
聖徒から栄光を受けようとされる(ピリピ2:10~11)
礼拝は主に栄光をささげるものである(ヨハネ4:24)
礼拝をささげる者は聖なる方の前で聖くならなければならない(Ⅰペテロ1:13~16)
聖くなければ、主を見ることができない
律法は「安息日を聖く守りなさい、(創2:3)
聖くなりなさい」といったが、(出20:10~11)
新約教会の聖日は安息日の次の日である
イエスが十字架で死んでよみがえられた日を
聖日とし、主を覚える(ルカ24:1~7)
聖日の主人はひとりであるが、安息日と主日は
それぞれその性質が異なる(マルコ2:27~28)
安息日は創造者を覚える日であり、その方のために存在する
主日はよみがえられた主を覚える日であり、聖徒のために存在する(使20:7~12)
今、私たちは安息日のしもべではない
霊魂を救ってくださった主の血を飲み、肉を食べる(Ⅰコリント11:23~28)
聖霊が臨まれた五旬節は主日であった(使2:1~4)
それゆえ、自分の霊魂のために聖日を守らなければならない(へブル10:25)
○ 主日を聖く守ることによって救いを受けるわけではない
救いを受けた自分の霊魂の信仰を告白してこそ、
いのちを受ける
○ 主イエスの功労を認めなければ、救いを受けることはできない
主イエスの功労を認める者は
自分の罪を自白してバプテスマを受ける
○ 安息日を守ったとしても裁きを受けるが、
イエスの恵みを認めれば、救いを受ける
主の日が近づくほど、さらに聖く守らなければならない
※ 安息日は恐れの日であるために、服従するが、
主日は自由な者が礼拝をささげる日であるために、
これを信仰告白とし、喜びをもって栄光をささげる

2021. 03. 07. 新しいぶどう酒は新しい皮袋に (マルコの福音書2:13~22)

新しいぶどう酒は新しい皮袋に
(マルコの福音書2:13~22)

神は
天で御心をなされた
その方は
愛する御子をこの地に遣わして
この地でもその御心がなされることを願われた(マタイ6:10)
イエスという名には天でなされた、
神の御心があふれている(マタイ1:21)
イエスが来られたのは正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためであった(マルコ2:17)
この世の宗教は倫理や道徳を重視する(マタイ5:17~20)
それゆえ、罪人とともにすることを不徳なことと考える(マルコ2:16)
しかし、
イエスは医者を必要としない健康な者を招くために来られたのではなく、
医者を必要とする病人を招くために来られた
その方は宗教のためにこの世に来られたのではなく、
宗教が担うことができない罪人を招くために来られた(マタイ3:5~9)
宗教は古い皮袋であり、新しいぶどう酒を入れることができない
イエスは悔い改めて宗教をもたない者を新しい皮袋と考えられる
真理は宗教によって妨げられ、
宗教から常に道徳的な判断を受ける(マタイ23:1~7)
聖霊は宗教の中に入って来られない
悔い改めた者に臨んで働かれる(使2:37~38)
○ 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないように、
宗教的な良心によっては真理を受け入れることができない
○ 主の招きを見なさい
主は宗教的な義人ではなく、
すべての人から非難を受けるような者を招かれた
○ 宗教的な良心を誇ってはいけない
罪人の心をもって悔い改め、
バプテスマを受けてこそ、新しい皮袋となる
※ 宗教的な良心を誇る者は主のしもべとなることができない
取税人や遊女のような罪人が
悔い改めて帰って来るときに、主から選ばれる