2023. 02. 19. 王を迎えるために心を変えなさい (マタイの福音書3:1~12)

王を迎えるために心を変えなさい
(マタイの福音書3章1~12節)

神は
まことでおられる
その方が
罪を犯した人類を救うために恵みを与えられたし、
まず「悔い改めなさい」といわれた(ゼカリヤ13:1~2)
バプテスマのヨハネは悔い改めるためのバプテスマを施して、
「悔い改めなさい」と叫んだ(マタイ3:11)
これは「神を正しく知りなさい」という意味であった(マタイ3:7~9)
律法に縛られて望みをもつことができなかった者に(ガラテヤ3:18~19)
「神に対する誤解を改めなさい」といったのである
悔い改めはただ「私は罪人です」と
いえばいいものではない(ガラテヤ3:23~25)
どうして罪人であるのかを悟らなければならない(詩51:1~5)
自分の良心に呵責を感じさせるものは汚れである
神に犯した罪は不信仰である(詩51:16~17)
神の戒めに対する不信仰であり、(ヨハネ12:47~50)
神の愛に対する不信仰である
神がしなさいといわれるのは私たちにいのちを与えるためであるし、(マタイ17:5)
してはいけないといわれるのは私たちを守るためである(創2:16~17)
バプテスマのヨハネは律法の下にいるユダヤ人に「悔い改めなさい」といった
これは「律法によっては救いを得ることができないということを知りなさい」といったのである(ローマ5:20~21)
◎ バプテスマのヨハネは悔い改めなさいといったが、
これは「律法の下にいる者は罪人であるということを認めなさい、
私が与えるバプテスマは罪を加えるものである」という意味であった
◎ イエスは律法の下にいる者を救うために来られた
律法の下にいる者はすべて罪人である
義人はひとりもいない
◎ イエスは罪人の罪をすべて負って十字架で死ぬことによって
律法を完成されたし、
よみがえることによって死に勝利された(ガラテヤ3:27)
※ これが私たちの信仰であるし、私たちはその信仰をバプテスマによって証しする
イエスは自分の名でバプテスマを授けることによって
律法、死の権勢から私たちを救われた

2023. 02. 12. ヨセフの義が負った責任 (マタイの福音書1:18~25)

ヨセフの義が負った責任
(マタイの福音書1章18~25節)

神は
誰も見ることができない
その方は
霊でおられるし、霊によって臨み、霊によって語られた(ヨハネ6:63)
神の御言葉は霊である
私たちを探し求める方も霊でおられる(ヨハネ4:23~24)
私たちは目で見て信じるのではない(ヨハネ20:29)
霊によって信じて従う(Ⅰコリント12:1~3)
ヨセフにキリストの受胎が伝えられた
ヨセフはそれを信じて最後まで従った(マタイ1:23~25)
このような決心はどんなにむずかしいものであっただろうか(マタイ1:19)
ヨセフは疑いや不義に押し流されないで、
神の御心を信じて従った(創15:6)
これが信仰である
その信仰によって人の考えや常識を超越し、(ローマ8:5~7)
神の御心を最も大きなものと考える(マタイ26:39)
現実や感情によってはむずかしいが、
神の御心に従わなければならない(マタイ9:1~8)
神の御言葉は御子を現した(ヨハネ3:16)
御子は自分の血をもって語られた(ヨハネ6:53~55)
聖霊はこれを証しされる(ヨハネ16:13~14)
◎ 神の御言葉と人の考えを比べてはいけない
神の御心は人の理性と異なる
それでも疑わないのが永遠のいのちを得る信仰である
◎ ヨセフのようにそれぞれが負わなければならない責任は
神の御心に対する信仰によって負う
人間の感情に合わなかったとしても、信じなければならない
◎ 信仰を助けるために保証として
聖霊が与えられた
ただ聖霊によって信仰をもたなければならない
※ 信じる者はまず自分を十字架につけなければならない
自分にだけ命じられた働きであっても服従しなければならない
納得がいかないと考えないで、信じて従わなければならない

2023. 02. 05. 見ずに信じる者は幸いである (ヨハネの福音書20:24~29)

見ずに信じる者は幸いである
(ヨハネの福音書20章24~29節)

神は
永遠に生きておられる
その方が
この世に御言葉を遣わされたのは
御言葉を聞いて信じるようにするためであった(ローマ10:17)
信仰は聞くことからはじまらなければならない(マタイ11:15)
見て信じるというのはふさわしくない(ヨハネ20:25)
神が求められる信仰によらなければ、(ヨハネ4:21)
誰も救いを受けることができない(ローマ10:13~15)
神を見た者はいないし、神を見ることもできない(ヨハネ1:18)
神は霊でおられる(ヨハネ4:24)
それゆえ、
聞いて知るようにするために御言葉を遣わされた(黙2:7)
イエス・キリストは御言葉でおられるし、その御言葉は真理である(ヨハネ1:1)
イエス・キリストの人格と活動はすべて御言葉を現す
この御言葉を離れ、目で見ることができない方を見ようとして、
さまようのであれば、それは迷信であり、神秘主義である(ルカ24:5)
イエスは「見て信じようとしてはいけない、
ただ聞いて信じなさい」といわれた
神の御言葉が来て、見せて聞かせた
主が天に上られたのちには見ることも聞くこともできなくなったが、
聖霊が私たちの心の中に入って来て語られる(使5:32)
◎ 聖霊を受けて聖霊によって伝える者の言葉を信じる
これを福音というし、真理という
◎ イエスがよみがえられたのを見た者の言葉を信じなかったために、
イエスはそれを責められた
福音を聞いて、神とイエスを信じる
◎ 現在、私たちが伝えるのは最も正常なことである
目で信じようとしないで、耳で聞いて信じなければならない
真理は見るものではなく、信じるものである
※ 私たちは主日に説教を通して御言葉を聞く
それゆえ、「耳のある者は聞きなさい」といわれた
聖霊が語られる御言葉を聞かなければならない