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2021. 11. 07. 家を建てる者が見捨てた石 (マルコの福音書12:1~12)

家を建てる者が見捨てた石 (マルコの福音書12:1~12) 神は 善良でおられる その方が 御心を天でなしたように この地でもなそうとして、御言葉を遣わされた(ヨハネ1:14~18) 御言葉がこの世に来るときまで、 とても大きな受難や犠牲があった これが人類の歴史であった(マタイ23:32~35) 神は初めに 人を神のかたちとして、神に似せて造り、(創1:26~27) 天で造られた霊、生きた者の母である母性、 霊を注がれた(創2:7) また、霊が死んだのちには天の血を与え、 血の価によって霊魂を再び生かされた(使20:28) そして、聖霊を遣わして、救いを受けた霊魂を保存された(Ⅱコリント1:21~22) アベルからはじまり、多くの預言者、 バプテスマのヨハネが殺され、(マタイ11:13) 最後に神の御子が殺された(マタイ27:45~50) 人間の罪悪が極限に達したのである(ルカ23:21~24) このような血の足跡が礎の石となって、 神の御心がなされたのである(へブル9:12~22) ○ イエスの教会は多くの預言者の血の足跡と イエス・キリストの十字架の血を礎の石として建てられ、 天の御心をなす ○ 私たちが受けた信仰を軽視してはいけない 血の足跡があったために、生きて存在している 神が血によって立てられたので、感謝しなければならない ○ 律法や預言者は御言葉のしもべである イエスは御言葉(ロゴス)であり、 最後に殺された神の御子でおられる ※ 御言葉が人殺しから奪い取られ、 イエス・キリストの人に与えられた 礎の石でおられるイエスの血を永遠に守らなければならない

2021. 10. 31. イエスの権威 (マルコの福音書11:27~33)

イエスの権威 (マルコの福音書11:27~33) 神は 権威と力でおられる その方が この世に御子を遣わされたが、御子は御言葉でおられる(ヨハネ1:1) 御言葉は永遠の前から 神とともにあったのちに現れた、(ヨハネ1:18) 神でおられる イエスは人の子と呼ばれるが、人々はその方を人間と考える イエスは神の御子と呼ばれるが、人々はその方を霊と考える(マルコ4:41) しかし、 その方は霊でも人間でもなく、人でおられる インマヌエルとしてこの世に来た方でおられる(マタイ1:21~23) それゆえ、 神のように自然を超越したりもするし、(マルコ4:39~41) 人のように自然に抑圧されたりもする(Ⅰペテロ2:24) 私たちはその方を誰と信じるのか(マタイ3:17) この世は イエスを、自然を超越する超能力者と考えたり、 人と同じ人間と考えたりする しかし、信じる者はどちらにも同意しない 「イエスは天におられる神であり、(ヨハネ20:31) 地におられる人である」と信じる ○ 聖霊はこれを証しされる 聖霊は真理の霊でおられる ○ 私たちは天に属した神の子であり、地に属した人である 2つの身分をもつ しかし、肉の思いは死であり、霊の思いはいのちである ○ 主を誰と信じるのかによって 神の子、相続者にもなるし、 堕落した者、地獄の子にもなる ※ それゆえ、信じることを拒まないで、 その方が神でおられると信じなければならない 信仰によって神の子となり、永遠のいのちを得る

2021. 10. 24. イエスといちじくの木 (マルコの福音書11:12~14)

イエスといちじくの木 (マルコの福音書11:12~14) 神は 御子のために万物を造られた その方が 御子をこの世に遣わされたが、御子がこの世にいる間に(へブル1:1~2) 用いるように、万物を予め備えられた(マルコ11:3)それゆえ、万物は御子が来られるときを待っていた(マルコ11:13) そして、御子が天に上られたのちには人類が用いるように 配慮がなされ、保たれている(Ⅰコリント9:4~11) イエスの目的地はエルサレムであった(マルコ13:31~33) イエスはそこに行く途中で空腹を覚え、いちじくの木を見つけた その木には実がなかった これを「熟していないいちじく」、「タクシュ」といったが、これは 「風に耐えることができないいちじく」という意味であった 万物の寿命は主がこの世に来られるときまでであった イエスが去られたのちに万物の時は終わった 万物はそのときから福音が働くときのためのものとなった 主がいつ来られるのかを知ることはできないが、(ヨハネ4:10) 常に準備していなければ、 主と関係がない者となってしまう 主が腹を立てたために、木が枯れたのではない 木の寿命が終わったのである(マルコ11:14) ○ 神が用いられなければ、 木のいのちは終わる 自分の命も財物も自分のものではない ○ 主が来られるのを待ちくたびれたとしても、 反復して実を準備しなければならない 主が来られたときに、「タクシュ」となってはいけない ○ 「タクシュ」のように この世の試みに勝利することができなければ、何の役にも立たない 呪いを受け、永遠に枯れてしまう ※ 試みに勝利することができない「タクシュ」となってはいけない この世で風が止むことはない 試みは常に存在するために、力を受けて勝利しなければならない

2021. 10. 17. 主が用いるといわれた (マルコの福音書11:1~10)

主が用いるといわれた (マルコの福音書11:1~10) 神は 万有の主人でおられる その方が主人でおられるために、 その方が万有を用いるときに逆らうことができる者はいない(詩100:3) 人間の大きな弱点はこの地で自分がすべてのものを 所有する主人であると誤解するところにある(マルコ10:21) 主人はただひとりの方であり、全能な造物主であり、 神でおられる 神は生きていて実在する方であり、父でおられる イエスは父の御心を行うために来られた(ヨハネ6:37~40) 神から命じられた働きをするために戒めとして来られた(ヨハネ10:18) 神の御言葉は神の戒めである(ヨハネ12:47~50) 神の戒めが肉体となって来られた(ヨハネ1:14) それゆえ、 イエスがおられたところと行かれたところでは 神の戒めが現れた(ヨハネ8:21~23) 主が用いるといわれたのであれば、逆らうことはできない(マルコ11:3) 私たちの信仰はこの真理を悟るものである(使17:23~25) ろばの子のように無能であったとしても 主が用いるといわれたのであれば、逆らうことができない 聖霊によって謙遜にその御名にひざまずき、従わなければならない(ヨハネ3:8) ○ 神に用いられなさい 命であっても、子どもであっても、物質であっても、 その方が用いるといわれたのであれば、用いられなければならない ○ 口では「主人でおられる」といいながら、 自分のものであるといって逆らうのであれば、不信仰である むしろ「主よ! 私を用いてください」と願わなければならない ○ 神が主人でおられるのか、自分が主人であるのかをはっきりとさせなさい 金持ちが天国に入って行くことができないのは 自分が主人であるかのように振る舞うためである ※ 「主よ! 私を召してください 主よ! 私を用いてください この世には自分のものはなく、あなたのものだけがあります」といいなさい

2021. 10. 10. 信仰が救う(マルコの福音書10:46~52)

信仰が救う (マルコの福音書10:46~52) 神は 全能でおられる その方が 御言葉をこの世に遣わして成就された(Ⅰヨハネ1:1~3) イエスの名は天で最高の財産である(ピリピ2:9) イエスの名は数億万の不義に勝利する完全な名であり、 全能者の名である(マタイ1:21) 天の名であり、ひとり子の栄光である(ヨハネ1:14) この名には不可能なことがない(ヨハネ14:13~14) 聖徒がこの名を心に迎え入れれば、 神の子とされる権勢をもつ(ヨハネ1:12) 盲人は何も見ることができなかったが、 その名を耳で聞いて呼んだ(ローマ10:17) 周囲から聞こえてくる惑わしの声に勝利して、 イエスの名を呼んだ(マルコ10:47) 盲人は自分がどうしてその名を呼ばなければならないのかを知って、 その名を呼んだ 自分の問題に対する答えがただその名にあると信じて、その名を呼んだ イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されると、 盲人の生涯の願いは成就した(マルコ10:52) 聖霊は私たちの弱さを助けるために常にともにされる(ローマ8:26) ○ 神に出て行く者は哀れな姿を見せないで、 信仰を見せなければならない 信仰は神が求められるものであり、天国の鍵である ○ 自分が助けを求める理由をはっきりと知って、 イエスの名をあがめなさい イエスはそのような者を救うために来られた ○ よみという宇宙の中にはない栄光がイエスにだけある その名にだけある イエスの名にひざまずいて、その栄光を見ようとしなさい ※ 主イエスはこの世に来て、信じる者を探される 物乞いをする者ではなく、 イエスの名の力を信じる者を探される

2021. 10. 03. 神だけができる (マルコの福音書10:23~31)

神だけができる (マルコの福音書10:23~31) 神は 良い方でおられる その方が なさることはすべて良いことである 祝福も恵みも愛も力も良い御心である(ローマ12:2) 富、誉れ、権勢、栄光はただその方にある(マタイ6:13) 人々は良いことを行おうと努力するが、(マルコ10:17) 良い方はひとりでおられる 天におられる神だけである(マルコ10:18) 何をすれば、天国に入って行くことができるのか 人間にできることはない(マルコ10:23~25) 金持ちの財産によっても、 人の義によっても天国に入って行くことはできない 神だけができる(マルコ10:26~27) それゆえ、 神の方法に従って信じ、 この世の国と権勢と栄光をすべて捨てた者は この世で祝福を100倍、受ける 迫害とともに受ける(マルコ10:28~30) そして、のちの世で永遠のいのちを受ける このために聖霊が私たちの中に入って来られた ○ 神が御子をこの世に遣わされたのは 天に行くことにおいて障害となるものを取り除くためであった 神はイエスの名を相続の証しとして与えられた(へブル1:4) ○ イエスを知らせて信じさせる聖霊は真理の霊でおられる(ヨハネ16:13) イエスが真理でおられる(ヨハネ14:6) ○ イエスによってだけ天国に入って行くことができる イエスを主人として迎え入れなければならない(ヨハネ14:10) そうすれば、イエスとともに迫害を受け、祝福を受ける ※ 人が自ら入って行くことができない天国の門を イエスが開かれたので、その方が門でおられる この世の重荷をすべて下ろしてこそ、その方とともに入って行く  

2021. 09. 26. 子どもを受け入れなさい (マルコの福音書10:13~16)

子どもを受け入れなさい (マルコの福音書10:13~16) 神は 永遠な父でおられる その方は 人類の父であり、愛でおられる(Ⅰヨハネ4:8) 神の子となった者が背いて 放蕩息子となったとしても、忍耐強く待たれる(ルカ15:19~20) 子どもは大きな力をもたないで重荷となったとしても、 天の種である 止めないで、繰り返し祝福して成長させなさい 子どもは大人になるし、大人は歳を取る(Ⅰサムエル2:26) それは良い木が育つようなものである 実を期待することができる サムエルは幼いときから祈る子どもであった(Ⅰサムエル3:3~6) 神は彼を大きく用いられた イエスは幼いときから御言葉を調べられた(ルカ2:41~47) イエスは御言葉でおられるが、預言者の教訓を学ばれた 教会は子どもが将来、大きな働き手になるということを悟り、 真理と恵みによって養育しなければならない 国の力は子どもにある 教会の未来も子どもにある それゆえ、イエスは子どもを繰り返し祝福された(マルコ10:16) ○ 教会は子どものために模範とならなければならない 子どもは常に大人から学んで育つ 子どもを見れば、その家の信仰を見ることができる ○ 大人は子どもの鏡となって、 この世を生きる知恵も学ばせるが、 霊的な天で生きる方法を学ばせなければならない ○ 恵みを受けた者の中には愛がある 愛は分け隔てなく、すべてを愛する 真理によって子どもを養育しなさい ※ 教会は母性をもつ教師となって、 子どもの霊魂を養育し、 子どもが立派な信者となるように導きなさい  

2021. 09. 19. 夫婦の義務 (マルコの福音書10:1~12)

夫婦の義務 (マルコの福音書10:1~12) 神は 愛でおられる その方が 人類を愛して、神の子とし、(ヨハネ1:12) 妻とされた(ホセア2:19~20) 夫婦は天の模型であり、(黙21:9~10) 天の調和である 神は人を造って「ひとつの体になりなさい」といわれた これが男と女の調和である(創2:24) 男には妻が預けられた(マタイ1:18~20) 妻は男の重荷であり、十字架である 妻には夫が預けられた 夫は妻の重荷であり、十字架である(マタイ16:24) 十字架は不便なものであり、困難なものであり、刑罰である 夫婦は互いに気に入らなかったとしても、 ひとりで走る道を2人でゆっくりと進む(エペソ5:20~24) 神は聖なる方でおられる 人間は地獄の子であるが、 恵みと憐れみをもって嫁に行く 神は人間が神を知るときまで続けて耐えられる(マタイ20:27~28) 信仰はイエスの血の代価を通して 天の真理と地の不義を調和させるものである(ホセア2:21~23) ○ 神は常に耐えられる 弱い私たちの霊魂のために常に耐えられる ○ イエスは常に耐えられる 自分の血によって買い取った花嫁のために続けて耐えられる ○ 夫は妻のために、妻は夫のために耐えなければならない 妻を捨てるのは信仰を捨てるようなものである 夫を捨てるのも信仰を捨てるようなものである 夫婦の間においては主が仲介者となられた ※ 互いに性格が異なっていたとしても、十字架と考え、 血を流したゴルゴタの丘への道を上るように 無理やりにでも耐えて勝利しなければならない

2021. 09. 12. 力を互いに尊重しなさい(マルコの福音書9:38~50)

力を互いに尊重しなさい(マルコの福音書9:38~50) 神は 全能者でおられる その方が 固有にもつ力をこの世に与えるために 御言葉を遣わされたが、その御言葉は力である(ルカ1:37) 神は御子にすべての力を与えられた(マタイ28:18~20) 御子は信じる者に力を与え、(マタイ10:1) ともに働き、御言葉に伴うしるしをもって 御言葉を確かなものとされる(マルコ16:17~20) 神の力を受けようとするのは自分のためではなく、 他の人のためである(詩147:10~15) 力がなければ、実のないいちじくの木である(マルコ11:13) 主も他の人も用いることができない 神の力は伝えられるものである(ヨハネ1:46) 小さな種が育って100倍の実を結ぶように、 自分を通してすべての人が力ある者とならなければならない(Ⅰコリント4:20) 力を行うことを妨害するというのはつまずきを与えるということである むしろ大きな石臼を首につけられて海に投げ込まれたほうがましである(マルコ9:42) そうすれば、火の中でも自分の霊魂を救うことになる 福音は入って来たのちにすぐに分け与えるものである(マルコ16:15) 聖霊の力は受けたのちにすぐにこの世の果てにまで伝えるものである(使1:8) ○ 兄弟をねたむのは悪魔的である 手によっても、足によっても、目によっても罪を犯してはいけない イエス・キリストの人はすべてひとつの体である ○ 教会は イエス・キリストの体の器官である 力を受けるように互いに助け合わなければならない ○ 自分の役割に忠実でなければならない 他の人をねたんではいけない 他の人を妨害する者は地獄に行く ※ 互いに力を愛して 信仰を促しながら、 しっかりと望みに立とう

2021. 09. 05. 人の先に立ちたいと思うのならば (マルコの福音書9:33~37)

人の先に立ちたいと思うのならば (マルコの福音書9:33~37) 神は ただひとりの父でおられる その方が この世に御言葉を遣わされたのは(マルコ4:14) 御言葉によって御心といのちを伝えるためであった(ルカ11:28) 御心といのちを伝えるためには母性をもたなければならない 母性をもつ者は 最も偉大な者であるし、最も低い者である(創3:15~16) 幼子に仕える最も低い者であるし、(マルコ7:27~28) すべての子孫を抱く大人である(ヨハネ19:26) 母性をもたなければ、絶対に指導者となることができない 根をもたない木のように、少しずつ枯れていく 私たちの信仰はまことの母性である 私たちが父の中にいるときに、 神も私たちの中にとどまられる(ヨハネ14:20) 母性は永遠に変わらない、いのちである(黙12:17) 神の御言葉は母性である 主イエスの愛も母性である 聖霊の賜物も母性である 無理やりに謙遜になることはできない 母性だけがまことの謙遜である ○ 王であっても母性をもたなければ、暴君となる 無知であったとしても母性をもつのであれば、王のような待遇を受ける 神から与えられた愛はこのようなものである ○ 最も高い方、主イエスが自分を低められた 最も高い御座に着く方が最も低い十字架を負われた 母性の根を深くまで下ろしてこそ、大きな木となる ○ 高い冠を願うのであれば、しんがりとなりなさい 自分の命を大きく考えれば、最も低いよみに行く 自分の命を捨てれば、天の栄光を受ける ※ 母性ある信仰をもとう 母性をもって教会を守ろう 教会で最も低い者となろう これが永遠のいのちである