
バベルの塔の教訓
(創世記11:1~9)
神は
ひとりの方でおられる
その方が
人類を全地に広げられたが、これは
この地を満たすためであった(創1:28)
しかし、
ノアの洪水ののちに再び人類が増えてきたときに、(創10:32)
神の意図を妨げることが起こった(創11:1~4)
人類がひとつの言葉、ひとつの話し言葉によって
ひとつの心をもち、ひとつの声によって動き、
神の意図に反抗するようになった(創11:6)
神の意図はこの世に御言葉を遣わし、
その御言葉によってこの世をひとつにするというものである(使17:26~29)
人の言葉によってひとつになるのは人本主義である(ローマ8:6)
神の御言葉によってひとつになるのは神本主義である(ヨハネ8:31)
神がなさることには悔いることがない(民23:19)
人類は多く存在するが、
聖霊によってバプテスマを受けた者はひとつの教会となる
教会を主管する方はただ
イエスひとりしかおられないので、その方は教会のかしらでおられる(エペソ1:22)
その上には
神ひとりしかおられないので、その方が義でおられる
○ 空の星、海辺の砂のように多くの人間が
神の子孫となった
○ 聖霊の名によってバプテスマを受けた者は
この世を葬って集まった、
イエス・キリストの人である
○ 神はすべてがひとつの体となり、
神の御言葉と御心に従うことを願われる
ただイエスの中でひとつの体となることを願われる
※ 私たちの救いはただひとつ、信仰である
神本主義信仰によってだけ救いを得る
人本主義によっては滅んで、天の御国に入ることができない
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 5. 12 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
聖楽教会を開拓してから、あっという間に50年が過ぎた。これまで私の肉体も青春も厳しい歳月もすべて流れていったが、まだ峠を越えなければならない労苦、産みの苦しみが残されている。子どもを産むときのように苦しくて厳しい瞬間が残されている。
もし私が初めから牧会者になろうとしたのであれば、まず神学校に行ったであろう。しかし、実際にはまず聖書を75回、読んだし、それによって複雑な働きをひとつの絵として描くようになった。その瞬間に受けた恵みや感激をどのようにして言葉で言い表すことができるであろうか。そのときから主の手につかまれ、私の霊、魂、体は休むことなく走ってきた。
私はメソジスト教会で教会生活をはじめた。そのとき、教会についての常識をまったくもっていなかったが、死ぬほど奉仕をするのが信仰生活であると考え、熱心に奉仕をした。自分の家のことも後回しにして、教会の働きを優先した。初めて会った牧師は呉慶麟牧師であった。その方はとても立派な師匠であったし、私はその方によく仕えた。しかし、多くの教会員は不思議にもその方に対して反感をもち、常に不平不満をもらしていたし、結局は教会を離れてしまった。一時は800人余りが集まったというが、のちには約100人に減ってしまった。しかし、その方は黙って自分の働きをしていた。そして、のちにソウルの教会に招かれて移って行った。そのとき、私もその教会を離れ、ソウルに上って来た。
私はのちに光時バプテスト教会で平信徒として信仰生活をしたが、そのときにも善良な担任伝道師が一部の教会員によって追い出されるのを目にした。また、のちにリバイバリストとなって全国各地に招待されたときにも、教会の長老や周辺の人々が常にこのような問題を起こすという現代教会の深刻さを悟った。彼らは神の御心通りに従っていこうとするよりも、主人のように振る舞い、牧師を自分のしもべにしようとした。それによって教会は成長することができなかったし、牧会者も2年ももたずに教会を離れた。
私は教会員が聖書通りに進むことができないということを悟り、そのときから独立教会を開拓、設立し、監督制度をもって牧会をしようと決心した。これは聖書的である。教会は主の体であるし、教会のかしらは主でおられる。主は教会の大牧者でおられるし、牧師はその方に召された牧者である。私はこの事実をはっきりと悟り、聖霊が立てられた監督として全身全霊、働いてきた。このようにして建てられたのが聖楽教会である。
これまでもそうであったが、これからも私たちの教会は主が来られる時まで監督制度を維持し、独立教会として神に仕える神本主義信仰をもち続ける。誰でも監督の権威を無視したり迫害したりするのであれば、その人は堕落しているのである。私たちはこれを悟り、ただ監督を中心として主が来られる日だけを待ち望まなければならない。教会の主人は私たちの主イエス、すなわち神でおられる。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室