何を求めるのであろうか?
(コリント人への手紙第二12:1~10)
神は
永遠でおられる
その方が
はじめられたことは永遠である(マタイ6:13)
神は御心を天でなされたように、
イエスによってこの世でもなそうとされるし、(マタイ6:10)
また、弟子たちもイエスがなさった働きをすることを願われる(ヨハネ14:12)
イエスの弟子、ステパノはその働きをしたのちに死んだが、(使7:59~8:1)
パウロがそれを受け継いだ
エリヤがもっていた霊感は彼が天に上って行ったのちに
エリシャが受け継いだ(Ⅱ列2:14)
神の働きは歳月にしたがって錆びつくことがないし、
時代にしたがって終わることがない(マタイ24:35)
イエスがなさった救霊の働きはその方が天に上られたのちに
聖霊に受け継がれた(使1:8)
今日、この時代、今この瞬間に、
何を求めるのであろうか?
腐っていくこの世のものを求めるのであろうか?
永遠なものを求めるのであろうか?
聖霊は永遠にともにおられる(ヨハネ14:16~17)
○ イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じである
以前、偉大な弟子たちとともにおられた方は
聖霊によって現代教会の働き手とともにおられる
○ イエスの弟子たちが全世界に出て行ってした働きを
今日もイエスのしもべがそのまましている
聖霊の賜物によってしている
○ この時代においてエリヤが誰であろうか
視無言の霊感を受け継ぐ者が誰であろうか
視無言の外套を取って手につかむ者である
※ この世のものはむなしい
天の力は永遠に存在する
還言運動のエリシャは誰であろうか
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 5. 19 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
働きはじめてから半世紀が過ぎたが、全身の生気は失われ、痩せ衰えた肉体を支えるのが実に大変である。骨の節々は痛み、体はとても疲弊している。目は常に霧に覆われているようであり、よく見えない。耳も音は聞こえるが、速い音は聞き逃すし、小さな音はよく聞こえない。食欲が失われ、食事量も以前の5分の1に減った。
この世に対する望みよりもパラダイスに対する望みにあふれている。声は熱弁をふるったのちのようにかすれている。死ぬほどの力を尽くして絞り出す声が混濁している。文章を書かなければ、横になりたくなるし、横になりたくないために、文章を書いている。このように流れていく歳月の中で、私の名は迫害を受ける死体であるし、視無言という号は矢を浴びる盾である。
私が霊的に生きてきた60年、聖楽教会という実を結んできた50年、私の神である主イエスが直接、導いてくださらなかったのであれば、私はすでにこの世を離れていたであろう。主が私に「あなたにはすべきことがある。あなたがいつこの世を離れるのかについては私にその権限がある。」といわれたので、私は感謝をもって従っている。
主はさらに私を打ち、老いるようにし、謙遜にし、屑にし、かたちをなくすようにされる。その中で私がすべきことは神から与えられた「神の意図」を岩の上にしっかりと立てることである。土台の上に3つの柱を立てて神の義の神殿を立てることである。この3つの柱とは「インマヌエル」、「バプテスマ」、「復活」である。これは真理である。これ以外に柱は存在しない。イエスは三位一体の神の御名である。
実が熟そうとするときに強風に揺さぶられて木から落ちてしまった霊魂がどんなに多いであろうか? しかし、その強風は終わらないで続けて熟そうとする実を落とそうとする。その強風はどこから吹いてきたのであろうか? 聖霊によって信仰生活をしない者は宗教人の良心に働く力によって木から落とされてしまう。
視無言をこの地から消すことを目標とする謀略や汚れた企みは私のとなりで従うべき者さえも揺さぶった。彼らは外見的には忠実に見えたが、私を引きずり下ろそうとして、血眼になった。しかし、私たちの神が私のような者を生かして残してくださったために、残りの実が強風に勝利して前に進んでいる。
私たちの教会が生きるためには視無言が生きていなければならない。金箕東は土に帰ったとしても、視無言は生きていなければならない。そのようにしてこそベレヤも生きるし、聖楽教会も生きる。私たちはこの時代に生まれた使命者であるし、神が栄光を受けられる。視無言を消そうとするどのような試みも退け、視無言を守らなければならない。これが私の願いである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室