2021. 07. 25. 人を汚すもの (マルコの福音書7:1~23)

人を汚すもの
(マルコの福音書7:1~23)

神は
まことでおられる
その方が
なさることと与えるものはすべて聖い
湧き水のように常にきれいである(Ⅰペテロ1:15~16)
教会の中で何が汚れていて、
何がきれいであるのか?
人はむなしい習慣や言い伝えられてきた伝統によって
神と遠ざかっている(Ⅰペテロ1:18~19)
「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている
人間の教えを教えとして教えるだけなので、
私を拝んだとしても無駄なことである」(マルコ7:6~7)
東洋人の風習と西洋人の風習が異なるからといって、
どちらが正しい、どちらが正しくないということはできない
目で見るものによってはそのようにいうことができない
北では雪が降るし、南では太陽の光が降り注ぐ
しかし、
木が花を咲かせ、葉をつけ、
そののちには実だけを残すように、
目に見えるものは変わるが、木自体が変わることはない
神は人を外見によって扱われない(使10:44~48)
○ しかし、人の心から出て来るものは汚れている
それは悪い考え、憎しみ、殺人、姦淫、
盗み、ねたみ、あざむき、そしりである
○ 洗わない手で食べるものが汚れているのではない
洗わない心から出て来るものが汚れている
聖霊によらなければ、その心は汚れている
○ 聖霊によってもつ心は愛、喜び、平安、
寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である
聖霊の実、力、賜物に満たされなさい
※ 聖霊によって変えられなければ、その心は汚れている
聖霊によって変えられれば、その心はきれいである
聖霊に満たされるためにさらに多く祈らなければならない

2021. 07. 18. イエス、水の上を歩かれる (マルコの福音書6:45~52)

イエス、水の上を歩かれる
(マルコの福音書6:45~52)

神は
全能な主でおられる
その方が
人として来て、自分の働きをしながら、
自分を知らせた(マタイ9:8)
神は超自然的な方でおられる(マルコ4:41)
自然と比べて理解しようとしないで、(マタイ19:25~26)
神を超自然的な方と理解しなければならない(ヨハネ4:23~24)
イエスは超自然的な方でありながらも、
父なる神との交わりを絶やさないで、
ひとり寂しい所に行って祈られた(マルコ1:35)
聖霊も同じように祈られるのに、(ローマ8:26~27)
私たちはどのようにしなければならないであろうか?
祈りはキリスト教の呼吸であり、命綱である(マルコ9:28~29)
信仰によって私たちの霊魂は
イエスと同じにならなければならないし、その方とひとつとなる(ヨハネ14:12)
これを「ともにする」あるいは「ともに歩む」という(マルコ16:20)
神はどのような方でおられるのか?
恐れがない全能な方でおられる
主の御言葉を求めるというのは
主の品格をもとうとするということである(ルカ1:37~38)
○ 聖霊が私たちの中に入って来られることによって、私たちは生まれ変わり、
肉体の中に聖霊の賜物をもち、
聖霊とともに働く
○ イエスの御言葉が私たちの中に入って来れば、その御言葉によって
イエスがなさる働きをする
神がともにされるように、永遠のいのちがともにする
○ 信仰は自然を超越する
神のものによって死に勝利し、
自然の法則を超越する
※ 自然の法則を超越することができなければ、宗教に過ぎない
私たちの信仰はよみの権勢も打ち勝つことができないものである
神の相続者の栄光を見るものである

2021. 07. 11. イエスの弟子の働き (マルコの福音書6:7~13)

イエスの弟子の働き
(マルコの福音書6:7~13)

神は
この世を愛される
その方が
天にある良いものをもって
この世を愛された(ヨハネ3:16)
神の御子、御言葉、力をもって愛された(ヨハネ1:14)
イエスの教会は人々が修行を積むところではない
神から恵みを受けて救いを受けるところである(使10:43)
神は人のものを奪おうとされるのではなく、(使17:25~27)
愛するものをもって生かそうとされる(マタイ17:5)
私たちがその方のものとなったのであれば、
その方に用いられる(詩100:3)
その方が命じられた働きをする(マルコ3:13~15)
イエスは弟子たちに力と権勢を与え、
ふたりずつ遣わし、
伝道させ、悪霊を追い出させた(マルコ6:7)
弟子たちは何の物品ももたないで、
イエスから与えられた福音と力だけをもって出て行った(マタイ10:8~10)
伝道や宣教においては物質よりも
神の御言葉と力をもって出て行き、(使3:6~10)
聖霊が追いやられる通りに働かなければならない(マルコ1:12)
○ イエスの力は普遍的である
信じる者に当然に伴うしるしである
その方は力がない伝道を命じられなかった
○ 力がない無能な者が働き手として名乗りを上げるのであれば、
宗教を布教するようになるし、いのちを与えることができない
力はいのちであるし、いのちは真理とともに働く
○ 私たちはいのちの御言葉を伝えるし、そのいのちは実状である
神の国の働きは言葉にはなく、力にある
聖霊の助けを受け、力をもって武装しよう
※ 主のしもべとなって、悪霊を身震いさせなければならない
悪霊は聖霊の力に満たされた者を見て身震いする
これは不思議なことではなく、当然なことである

2021. 07. 04. イエスと「5つのパンと2匹の魚」 (マルコの福音書6:34~44)

イエスと「5つのパンと2匹の魚」
(マルコの福音書6:34~44)

神は
全能な方でおられる
その方は
死んだ者を生かし、(ヨハネ14:13~14)
ないものをあるもののように呼ばれる
イエスは神と等しい方でありながらもこの世に来られた(ピリピ2:6~7)
その方は永遠のいのちの御言葉をもって教えられたが、(ヨハネ6:68)
肉体の弱さを知って代わりに負われた(Ⅰペテロ2:24)
その方は自分に従う多くの者が空腹であったときに
食べ物を与えて解決された
しかし、それは一回的なことであった
イエスは人類の霊魂を迎えるために来られた(ヨハネ6:40)
しかし、
その方には不可能なことがない(マルコ9:23)
人が努力してもなすことができなかったときに、(ヨハネ11:40)
その方は力を行われた
これを信じて従う者に大きなしるしを
現される
弟子たちは主が命じられた通りに従い、
会衆の間で秩序をつくり、(マルコ6:39~40)
パンを分け与えたが、
女と子どもを除いて5000人がそれを食べた
そして、残ったパン切れが12のかごに取り集められた
○ イエスの力としるしは伝説ではない
今も働かれるその方の力と権勢である(マルコ16:20)
○ 私たちは霊魂を救い、また、
肉体がある間に5つのパンと2匹の魚の霊感も得なければならない
○ 父なる神は私たちに必要なものを知っておられる
信仰によって求め、疑わないで従わなければならない
イエスは昔も今も同じでおられる
※ 私たちの信仰は過ぎ去った骨董品を眺めるものではない
イエスが私たちの生と死、祝福と呪いについて最後まで責任を取られる
生きておられる主の力を頼ろう! 頼ろう!(マタイ28:20)