2021. 12. 26. まことの神とキリスト (マルコの福音書13:14~23)

まことの神とキリスト
(マルコの福音書13:14~23)

神は
まことでおられる
その方が
まことでおられるために、その方がなさることはすべてまことである
聖書は神を「まこと」といった(ヨハネ17:3)
宇宙というよみには多くの神々がいる(申6:14~15)
それらは堕落して天から追い出された霊である(Ⅱペテロ2:4)
この世は霊を目で見ることができないために、
霊を見分ける力や知力をもたない(Ⅱコリント4:4)
霊を見分ける力は賜物であり、 聖霊によって与えられるものである(Ⅰコリント12:10)
霊的なものはただ霊的に
見分けることができるし、判断することができる(Ⅰコリント2:13~15)
神を霊的に見分けて定義したのが「まこと」である(出20:3)
神のほかに「まこと」は存在しないし、宇宙の中には存在しない
まことの神は
よみに存在するどのような霊とも区別される
それゆえ、神を「聖い」という
神の御名をあがめなければならない(マタイ6:9)
キリストを自称することはできない
神が天で油を注いで印を押して遣わしてこそ、キリストである
私たちが天でまことの信者と認められたのも
神が印を押して保証してくださったためである(Ⅱコリント1:21~22)
○ この世の終わりには偽預言者が現れて惑わす
見分ける啓示を受けなければならないし、だまされてはいけない
○ 私たちは
聖霊によってよみがえられた方を知って信じるし、
その方を生かした方を信じる
○ 自分をキリストといって惑わす者、「キリストがここにいる、あそこにいる」
という言葉にだまされてはいけない
私たちは最後までまことの神とその方が遣わされたキリストを知って信じる
※ 霊を見分けよう、霊的な眼を開こう
神はキリストによって私たちを知るし、
私たちは聖霊によってキリストとその方を遣わされた方を知る

2021. 12. 19. 最後まで耐え忍ぶ信仰(マルコの福音書13:1~13)

最後まで耐え忍ぶ信仰
(マルコの福音書13:1~13)

神は
恵み深い
その方が
恵みによって自分の御子を差し出された
これを信じるのが私たちの信仰である(ヨハネ1:14)
私たちは恵みによって救いを受けたということを信じる
救いを受けた者は聖霊によって印を押され、保証を受ける(Ⅱコリント1:21~22)
イエス・キリストの人には証しがあるし、力がある(マルコ16:17~20)
これらはアクセサリーではなく、
救いをなすときまで霊魂を保存するためのものである(ヨハネ17:11~12)
私たちはバプテスマを受けることによって肉体の情欲を葬り、
聖霊の人として生まれ変わった(ローマ6:4~5)
しかし、霊魂は土の器のような肉体に入れられている(Ⅱコリント4:7)
肉体は霊ではない土であるし、いつまで耐えるのかもわからない(創3:19)
これは霊魂に大きな脅威となっている(創3:14~15)
霊魂は天に属しているし、肉体はよみに属している
霊と肉体は激しく葛藤する(ローマ7:21~25)
患難、試み、苦難が待ち受けているが、(使20:22~24)
これらはこの世の終わりではない
それゆえ、最後まで耐え忍ぶ者が救いを受ける(マルコ13:13)
聖霊の法に従って生きなければ、ことさらに罪を犯す(へブル10:26~30)
○ 肉体はこの世に属しているために、この世から苦痛を受ける
親や兄弟という血肉が互いに葛藤するし、
愛がないために、殺そうとする
○ この世が嘲笑い、迫害するために、苦しい
主イエスが来られる日が目に見えないために、もどかしい
霊的な力を失い、試みに巻き込まれる
○ しかし、最後まで信仰を守る者が救いを受ける
この世を生きる日はなくなっていき、
救いの日が近づいているために、機会を生かして用いなければならない
※ この世が遠ざかっていくのを恐れてはいけない
神に近づきなさい、そうすれば、神も近づかれる
最後まで悪魔に敵対しなさい、そうすれば、悪魔は退く

2021. 12. 12. 主の関心 (マルコの福音書12:38~44)

主の関心
(マルコの福音書12:38~44)

神は
造物主でおられる
その方が
霊的なものと物質をすべて創造された(へブル11:2)
それゆえ、すべてが
神の御名の前でひざまずかなければならない(ピリピ2:10~11)
神の義は父でおられる(ローマ8:14~17)
父の御心通りに父に仕えるのが真理である(ヨハネ6:38~39)
神の御子であるその方も
自分の命を尽くして父に仕えた(へブル5:7~10)
これが真理であり、いのちである
私たちが信じるのは永遠の前から定められたものである
神は御子との関係を啓示として見せた(エペソ1:17~19)
これを信仰という(へブル11:1)
父なる神は御子によって栄光を受けられる
御子は父から国と力と栄光を
相続として受けられた(へブル1:4)
その名をイエスという
私たちの信仰は「主人はひとりである」というものである
それゆえ、主人に従うのが信仰である(ピリピ2:5~8)
富は「マモン」といい、主人という意味をもつ(マタイ6:21)
○ 神を主人として仕えるのか、富を「マモン」として仕えるのか、選ばなければならない
神は主人でおられるし、すべてが主人のものである
○ 惜しむのは肉の思いであり、死に至る
神を思うのは霊を生かす
○ ささげる献金の金額に大小はない
神の関心は誰が力を尽くして仕えるのかというところにある
人の目では見ることができないが、霊は知っている
神はその人の霊を愛される
※ 金持ちは宗教生活をよくすることができるが、
貧しい者は信仰生活をさらによくすることができる
それゆえ、貧しい者は幸いであるといった

2021. 12. 05. 神の御子キリスト (マルコの福音書12:35~37)

神の御子キリスト
(マルコの福音書12:35~37)

神は
愛でおられる
その方が
ひとり子を自分の愛の対象とされた(マタイ17:5)
自分が唯一であるように、御子を唯一とされた
唯一の方が御子を唯一の相続者として(ヨハネ1:18)
立てられた(へブル1:1~2)
それゆえ、私たちは
唯一のまことの神とその方が遣わされたイエス・キリストを信じる(ヨハネ17:3)
イエスは父の中におられるときに御言葉(ロゴス)であった(ヨハネ1:1)
神の御言葉は義と御心であり、不変の真理である(ヨハネ14:6)
その方はアブラハムよりも先におられた(ヨハネ8:52~59)
アブラハムは主のしもべであり、預言者であり、
神と契約を結んだ者であった(詩105:4~11)
神の御言葉は自分よりも先に預言者を遣わし、(ヨハネ5:39)
道を備える者として用いた(マタイ3:1~3)
アブラハムと結んだ契約をイサクに誓い、
ヤコブに定め(律法)として与えた
律法が福音よりも先に存在した
エリヤが来たのちにキリストが来られた(マラキ4:5~6)
預言なしに存在するのは真理ではなく、宗教である(Ⅰヨハネ4:2~3)
宗教は実状ではないものを探していく信念である
○ キリストは道なしに現れたのではない
先に存在する預言に従って来るのが真理である
○ 私たちの信仰は「初めから
存在する預言を成就するのが
神から遣わされた者であり、真理である」というものである
○ アブラハム、ユダ、ダビデは主の道であった
他の道を通して来る者はキリストではなく、
偽りのキリストである
※ イエス・キリストの前には多くの預言者が存在し、
血を流し、主の道を備えた
神はイエスがバプテスマを受けられたときにこれを証しされた

2021. 11. 28. 最も大切な戒め (マルコの福音書12:28~34)

最も大切な戒め
(マルコの福音書12:28~34)

神は
唯一の方でおられる
その方が
この世に信仰を与えられた(へブル11:1~2)
これは神を愛させるためであり、(Ⅰヨハネ4:8)
神を愛する者を愛するためであった(ヨハネ15:10~14)
神を愛する者が神の民である(Ⅱコリント6:16~18)
神の愛を受ける者が神の子である(ヨハネ14:21)
神と私たちの関係は愛である(ヨハネ14:23~24)
神を愛する愛は唯一である(ヨハネ17:3)
主人がひとりであるためである
しかし、人類はそれぞれその方から同等の愛を受ける(ヨハネ3:16)
これは人類が空の星、海辺の砂のようであるためである
愛という言葉には選別的な意味が付与される
神を愛するときには「フィレオ―」というし、
隣人を愛するときには「アガペー」という(ヨハネ21:15~17)
「フィレオ―」とは唯一の愛であり、肉体の命のようにひとつである
神をフィレオ―すれば、他の存在をフィレオ―することはできない
「アガペー」とは同等の愛であり、親が子を区別することなく愛するように
すべてのために自分の命をささげて仕える
主はペテロにフィレオ―を要求された
○ 律法のすべては愛である(マタイ22:37~40)
律法と真理の意味も愛である
その愛は母性であるし、ひとりの母と多くの子の
永遠の関係である
○ 教会が聖徒を愛するのはアガペーである
教会が神を愛するのはフィレオ―である
○ 愛がないというのは戒めを犯すということである
神に向けられた唯一の戒めと
隣人に向けられた同等の戒めを守らなければならない
※ 愛がないというのは信仰がないということである
愛がなければ、神と関係がなくなるし、
教会と関係がなくなる

2021. 11. 21. 私たちの望みは復活である (マルコの福音書12:18~27)

私たちの望みは復活である
(マルコの福音書12:18~27)

神は
永遠のいのちでおられる
その方が
アブラハムとともにされたし、
アブラハムの死後には息子であるイサクとともにされた
そして、イサクの死後には息子であるヤコブとともにされた(詩105:5~10)
神との関係は代々に渡って千代に至る
その契約の御言葉を誤解した者が(出3:15~16)
「神は死んだ者と何の関係ももたない
この世で生きている者だけを相手にして祝福を与える」と信じた(ヨハネ5:25~29)
彼らは現世主義者であるサドカイ人であった
しかし、恵みの福音を受けた私たちは(ヨハネ3:16)
「この世では祝福を与え、のちの世では復活と永遠のいのちを与える」という、
神の約束を信じる(ヨハネ11:25~26)
私たちの信仰は「霊魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、
また、健康を得る」というものである(Ⅲヨハネ1:2)
それゆえ、私たちには「霊魂が幸いを得る」というのちの世の望みがある(Ⅰコリント15:16~19)
私たちはこれによって復活を信じるが、
現代版サドカイ人は
この世でだけ幸いを得ることを祝福と考える
彼らには「のちの世で霊魂が復活する」という信仰がない
それゆえ、霊的な信仰生活を疎かにする(へブル2:3)
「この世のためには律法によって生き、
のちの世のためには聖霊によって生きる」というのが私たちの信仰である
○ 復活の時には永遠に生きるために、
肉体や子孫を頼ることはない
○ 肉体が死ぬことはないし、子孫も必要ではない
それゆえ、めとることも嫁ぐこともないし、天使のようである
○ 私たちの望みは復活である
この地では日々の糧を、のちの世のためには神の国とその義を求める
※ 生活を聖くして敬虔にしなさい
そうすれば、この地で肉体も幸いを得る
第一の復活のために聖霊に満たされて霊的になりなさい

2021. 11. 14. 神のものは神に (マルコの福音書12:13~17)

神のものは神に
(マルコの福音書12:13~17)

神は
主人でおられる
その方が
天にあるものと地にあるものを造られたので、
それらはすべて造物主のものである(詩100:3)
その方が人に重荷を負わせるのは何かが足りないためではない
まことに神を探し求めさせるためである(使17:25~27)
神から恵みを受けた者は(エペソ2:8)
神のものを知って神に従うが、(マラキ3:7~11)
神を知らない者は神を試みる(マタイ4:7)
イエスは「信じる者がこの世の王に仕えるのは
正しいことであるのか」という質問に
「神のものは神に、
この世の王のものは王に返しなさい」と答えられた
「デナリ」には王の肖像があった
イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい
そして、神のかたちをもった自分を、そのかたちの主人に
ささげなさい」といわれた
「この世に属するものはこの世の法通りにし、(ローマ13:1~7)
天に属するものは天の法通りにしなさい」といわれた
聖霊の人は聖霊によって生きなければならない(ヨハネ3:8)
○ 信じる者は税金を徴収する者に従うし、
信仰をもつ霊魂は霊魂を生かす方に従う
神から与えられるものと国家から与えられるものを区別しなさい
○ イエスはユダヤの地に来て、カイザルに税金を納められたし、
神に属する御子として死にまで神に従われた
神からは復活を受けられたし、
カイザルからは十字架の死を受けられた
○ 信仰がなければ、神を喜ばすことができない
神に出て行く者はその方から報いが与えられることを信じなければならない
※ 国家に対しては国民としての義務を果たす
神に対しては信者としての義務を果たす
父なる神と肉の父に仕える(マルコ7:10~13)

2021. 11. 07. 家を建てる者が見捨てた石 (マルコの福音書12:1~12)

家を建てる者が見捨てた石
(マルコの福音書12:1~12)

神は
善良でおられる
その方が
御心を天でなしたように
この地でもなそうとして、御言葉を遣わされた(ヨハネ1:14~18)
御言葉がこの世に来るときまで、
とても大きな受難や犠牲があった
これが人類の歴史であった(マタイ23:32~35)
神は初めに
人を神のかたちとして、神に似せて造り、(創1:26~27)
天で造られた霊、生きた者の母である母性、
霊を注がれた(創2:7)
また、霊が死んだのちには天の血を与え、
血の価によって霊魂を再び生かされた(使20:28)
そして、聖霊を遣わして、救いを受けた霊魂を保存された(Ⅱコリント1:21~22)
アベルからはじまり、多くの預言者、
バプテスマのヨハネが殺され、(マタイ11:13)
最後に神の御子が殺された(マタイ27:45~50)
人間の罪悪が極限に達したのである(ルカ23:21~24)
このような血の足跡が礎の石となって、
神の御心がなされたのである(へブル9:12~22)
○ イエスの教会は多くの預言者の血の足跡と
イエス・キリストの十字架の血を礎の石として建てられ、
天の御心をなす
○ 私たちが受けた信仰を軽視してはいけない
血の足跡があったために、生きて存在している
神が血によって立てられたので、感謝しなければならない
○ 律法や預言者は御言葉のしもべである
イエスは御言葉(ロゴス)であり、
最後に殺された神の御子でおられる
※ 御言葉が人殺しから奪い取られ、
イエス・キリストの人に与えられた
礎の石でおられるイエスの血を永遠に守らなければならない

2021. 10. 31. イエスの権威 (マルコの福音書11:27~33)

イエスの権威
(マルコの福音書11:27~33)

神は
権威と力でおられる
その方が
この世に御子を遣わされたが、御子は御言葉でおられる(ヨハネ1:1)
御言葉は永遠の前から
神とともにあったのちに現れた、(ヨハネ1:18)
神でおられる
イエスは人の子と呼ばれるが、人々はその方を人間と考える
イエスは神の御子と呼ばれるが、人々はその方を霊と考える(マルコ4:41)
しかし、
その方は霊でも人間でもなく、人でおられる
インマヌエルとしてこの世に来た方でおられる(マタイ1:21~23)
それゆえ、
神のように自然を超越したりもするし、(マルコ4:39~41)
人のように自然に抑圧されたりもする(Ⅰペテロ2:24)
私たちはその方を誰と信じるのか(マタイ3:17)
この世は
イエスを、自然を超越する超能力者と考えたり、
人と同じ人間と考えたりする
しかし、信じる者はどちらにも同意しない
「イエスは天におられる神であり、(ヨハネ20:31)
地におられる人である」と信じる
○ 聖霊はこれを証しされる
聖霊は真理の霊でおられる
○ 私たちは天に属した神の子であり、地に属した人である
2つの身分をもつ
しかし、肉の思いは死であり、霊の思いはいのちである
○ 主を誰と信じるのかによって
神の子、相続者にもなるし、
堕落した者、地獄の子にもなる
※ それゆえ、信じることを拒まないで、
その方が神でおられると信じなければならない
信仰によって神の子となり、永遠のいのちを得る

2021. 10. 24. イエスといちじくの木 (マルコの福音書11:12~14)

イエスといちじくの木
(マルコの福音書11:12~14)

神は
御子のために万物を造られた
その方が
御子をこの世に遣わされたが、御子がこの世にいる間に(へブル1:1~2)
用いるように、万物を予め備えられた(マルコ11:3)それゆえ、万物は御子が来られるときを待っていた(マルコ11:13)

そして、御子が天に上られたのちには人類が用いるように

配慮がなされ、保たれている(Ⅰコリント9:4~11)

イエスの目的地はエルサレムであった(マルコ13:31~33)

イエスはそこに行く途中で空腹を覚え、いちじくの木を見つけた

その木には実がなかった

これを「熟していないいちじく」、「タクシュ」といったが、これは

「風に耐えることができないいちじく」という意味であった

万物の寿命は主がこの世に来られるときまでであった

イエスが去られたのちに万物の時は終わった

万物はそのときから福音が働くときのためのものとなった

主がいつ来られるのかを知ることはできないが、(ヨハネ4:10)

常に準備していなければ、

主と関係がない者となってしまう

主が腹を立てたために、木が枯れたのではない

木の寿命が終わったのである(マルコ11:14)

○ 神が用いられなければ、

木のいのちは終わる

自分の命も財物も自分のものではない

○ 主が来られるのを待ちくたびれたとしても、

反復して実を準備しなければならない

主が来られたときに、「タクシュ」となってはいけない

○ 「タクシュ」のように

この世の試みに勝利することができなければ、何の役にも立たない

呪いを受け、永遠に枯れてしまう

※ 試みに勝利することができない「タクシュ」となってはいけない

この世で風が止むことはない

試みは常に存在するために、力を受けて勝利しなければならない