2021. 09. 12. 力を互いに尊重しなさい(マルコの福音書9:38~50)

力を互いに尊重しなさい(マルコの福音書9:38~50)

神は
全能者でおられる
その方が
固有にもつ力をこの世に与えるために
御言葉を遣わされたが、その御言葉は力である(ルカ1:37)
神は御子にすべての力を与えられた(マタイ28:18~20)
御子は信じる者に力を与え、(マタイ10:1)
ともに働き、御言葉に伴うしるしをもって
御言葉を確かなものとされる(マルコ16:17~20)
神の力を受けようとするのは自分のためではなく、
他の人のためである(詩147:10~15)
力がなければ、実のないいちじくの木である(マルコ11:13)
主も他の人も用いることができない
神の力は伝えられるものである(ヨハネ1:46)
小さな種が育って100倍の実を結ぶように、
自分を通してすべての人が力ある者とならなければならない(Ⅰコリント4:20)
力を行うことを妨害するというのはつまずきを与えるということである
むしろ大きな石臼を首につけられて海に投げ込まれたほうがましである(マルコ9:42)
そうすれば、火の中でも自分の霊魂を救うことになる
福音は入って来たのちにすぐに分け与えるものである(マルコ16:15)
聖霊の力は受けたのちにすぐにこの世の果てにまで伝えるものである(使1:8)
○ 兄弟をねたむのは悪魔的である
手によっても、足によっても、目によっても罪を犯してはいけない
イエス・キリストの人はすべてひとつの体である
○ 教会は
イエス・キリストの体の器官である
力を受けるように互いに助け合わなければならない
○ 自分の役割に忠実でなければならない
他の人をねたんではいけない
他の人を妨害する者は地獄に行く
※ 互いに力を愛して
信仰を促しながら、

しっかりと望みに立とう

2021. 09. 05. 人の先に立ちたいと思うのならば (マルコの福音書9:33~37)

人の先に立ちたいと思うのならば
(マルコの福音書9:33~37)

神は
ただひとりの父でおられる
その方が
この世に御言葉を遣わされたのは(マルコ4:14)
御言葉によって御心といのちを伝えるためであった(ルカ11:28)
御心といのちを伝えるためには母性をもたなければならない
母性をもつ者は
最も偉大な者であるし、最も低い者である(創3:15~16)
幼子に仕える最も低い者であるし、(マルコ7:27~28)
すべての子孫を抱く大人である(ヨハネ19:26)
母性をもたなければ、絶対に指導者となることができない
根をもたない木のように、少しずつ枯れていく
私たちの信仰はまことの母性である
私たちが父の中にいるときに、
神も私たちの中にとどまられる(ヨハネ14:20)
母性は永遠に変わらない、いのちである(黙12:17)
神の御言葉は母性である
主イエスの愛も母性である
聖霊の賜物も母性である
無理やりに謙遜になることはできない
母性だけがまことの謙遜である
○ 王であっても母性をもたなければ、暴君となる
無知であったとしても母性をもつのであれば、王のような待遇を受ける
神から与えられた愛はこのようなものである
○ 最も高い方、主イエスが自分を低められた
最も高い御座に着く方が最も低い十字架を負われた
母性の根を深くまで下ろしてこそ、大きな木となる
○ 高い冠を願うのであれば、しんがりとなりなさい
自分の命を大きく考えれば、最も低いよみに行く
自分の命を捨てれば、天の栄光を受ける
※ 母性ある信仰をもとう
母性をもって教会を守ろう
教会で最も低い者となろう これが永遠のいのちである

2021. 08. 29. 神の国を見る者 (マルコの福音書9:1~8)

神の国を見る者
(マルコの福音書9:1~8)

神は
霊であり、目に見えない方でおられる
しかし、
御言葉が肉体となって来て、
父なる神を見せた(ヨハネ14:9)
イエスをアブラハムの子孫、ヨセフの子と見るのであれば、
神の国が力をもって到来するのを見ることができない(マタイ13:55)
神のふところから出て来られた神の御子と見るのであれば、
神の国が力をもって到来するのを見る(ヨハネ3:16)
弟子たちはイエスがよみがえって天に上られたのを、
また、五旬節に聖霊が臨まれたのを目で見たが、(使2:1~4)
悪魔のしもべとなったイスカリオテ・ユダは見ることができなかった(ヨハネ13:26~27)
イエスに口づけをしながらも、(マタイ26:48~49)
すでに悪魔の惑わしに陥っていたために、栄光を見ることができなかった(ヨハネ13:1~2)
聖霊が臨まれたというのは
神の国が来たということである(マタイ12:28)
聖霊を受けた者から神の国の力が現れる
その力の前で悪霊が追い出されて出て行く
聖霊を受けた者は聖霊の人となり、
殉教者となり、第一の復活の栄光を見る(黙20:4~5)
聖霊によって神の国が来た者はその約束を受けたのである(Ⅱコリント1:21~22)
○ イエスの弟子の中にも栄光を見ることができないで
滅んだ者がいた
聖霊に逆らうのであれば、この世でも次に来る世でも赦しを受けることができない
○ 望みをしっかりと告白して、自分を守らなければならない
悪魔の惑わしに陥ってはいけないし、試みに遭ってはいけない
ことさらに罪を犯す者は裁きを受ける
○ 神の国が力をもって到来するのを見た者は
パラダイスに行く
見ることができなかった者はアブラハムのふところに行く
※ 最後は善悪の間で裁きを受ける
聖霊は人の性格に従って受けるのではない
絶対的に従って服従することによって受ける

 

2021. 08. 22. 自分を捨てて従いなさい (マルコの福音書8:27~38)

自分を捨てて従いなさい
(マルコの福音書8:27~38)

神は
生きているまことの方でおられる
その方は
自分のふところにおられた御子をこの世に与えられた(ヨハネ1:18)
御子の命までこの世に与えられた(ヨハネ10:11)
イエスは
自分の力によってではなく、(マルコ15:34)
父なる神の御心に従って、私たちの救い主となられた(ヨハネ6:38~40)
神の御心は血と肉によっていのちと永遠のいのちを与えるということであった
そのためにイエスは肉体をもってこの世に来て、死なれた(ヨハネ1:36)
人として来た方が自然寿命を選ばないで、
刑罰を受けるべき人類の代わりに刑罰を受けて死なれた(Ⅰペテロ2:24)
イエスの苦難には自分の意志がひとつもなく、(マルコ1:12)
神の御心だけがあった
誰でも主に従うためには自分を捨てて、
自分の十字架を負って、従わなければならない(マタイ16:24~25)
神の御心を拒めば、サタンとなる
堕落して、主イエスに再び会うことができなくなる(マタイ16:23)
イエスは戒めとして苦難を受けられた(ヨハネ10:18)
私たちの信仰は戒めに従って生きるものである
自分を捨ててこそ、従うことができる
○ イエスのために受ける苦難を喜びと考えなければならない
私たちはバプテスマを受けることによって戒めを受けた
バプテスマを受けた者は自分の命をもたない、主のものである
○ 十字架を負って進む道は苦行の道ではない
神の御心に従う道である
戒めとして受けた苦難には恵みだけがある
○ 主に従う門は狭い門である
その道は第一の復活という目標に向かって進む険しい道である
聖霊は私たちが殉教者となるように働かれる
※ 人の考えはサタンの考えである
肉の考えは主の敵となる
主イエスを愛して、それぞれ自分の十字架を負って従おう

2021. 08. 15. まだ悟らないのか (マルコの福音書8:14~21)

まだ悟らないのか
(マルコの福音書8:14~21)

神は
創造者でおられる
その方は
ないものをあるもののように呼び、(ヨハネ21:5~6)
死んだ者を生かす方でおられる(ヨハネ11:42~44)
私たちはその方を信じる(マルコ9:23)
イエスは弟子たちの前でしるしを行われた
5つのパンをもって5000人を食べさせ、(マルコ6:44)
7つのパンをもって4000人を食べさせ、残りを
それぞれ12のかご、7つのかごに取り集められた(マルコ8:8~9)
これは神だけがすることができる働きであったが、(創1:1)
イエスがこれをなさった
これを見て、イエスが神でおられるということを悟らないのか(ヨハネ14:11)
どうしてパンがないといって議論するのか
イエスは父から権勢を受けられたし、(マタイ28:18~20)
信じる者は主からその権勢を受けた(マタイ10:11)
信仰をもってイエスを心に迎え入れたのであれば、
神の子とされる権勢を受けたのである(ヨハネ1:12)
神の子とされる権勢をもち、その名を迎え入れたのであれば、
パンがないことを心配する必要はない
5つのパンと2匹の魚の霊感をもつのが信仰である(マルコ16:17~20)
○ どうして悟らないで心配するのか
イエスを信じるといいながらも、心に迎え入れないで、
疑い、宗教人となるのであれば、何も受けることができない
○ 主を心に迎え入れるのがそれほどむずかしいことであろうか
信じる者は主とひとつとなった者であり、
神の働きをする者である
○ 神だけがすることができる働きを見たとしても、悟らないで、
自分には何の権利もないと考えるために、
自分の義によって義なる者となろうとする
※ ヘロデやパリサイ人は偽善者であった
神と自分の義を別々に考える者であった
イエスは信じる者に「このようなパン種に気をつけなさい」といわれた

2021. 08. 08. ガリラヤでのイエスの力 (マルコの福音書7:31~37)

ガリラヤでのイエスの力
(マルコの福音書7:31~37)

神は
愛でおられる
その方が
初めからこの世に関心をもたれた(詩51:16~17)
ガリラヤで神の御子を現された(マタイ3:17)
バプテスマのヨハネはモーセの律法と預言者の最後であり、(マタイ11:13~14)
初めの契約の終わりと新しい契約の初めの
証人であった(ヨハネ1:6~8)
ガリラヤはバプテスマのヨハネが最後に働いた地であったし、
イエスが最初に働かれた地であった
それゆえ、律法と福音が交差するところであった(ヨハネ1:29~34)
律法と預言者の終わりとなるバプテスマのヨハネは(マタイ11:14、マラキ4:5)
ガリラヤで首をはねられ、終わりを迎えたが、
このときからイエスの伝道が活発となった
イエスは耳が聞こえず、口のきけない者を群衆から連れ出し、
両耳に指を差し入れ、つばを吐き、その人の舌に触られた
そして、「エパタ!」、すなわち「開け!」といわれた(マルコ7:34)
その人の耳は開き、舌のもつれは解けた
その人の姿は律法と預言者の時代の民の姿であった
耳があっても聞くことができず、舌があっても伝えることができず、(ローマ11:8)
律法と預言者の霊的なものを知ることができなかった(へブル8:13)
○ 力とは? 指という意味である
イエスの力がその人の耳に入って行った
イエスのつばは主の舌から出て来た
○ 異言とは? 主から与えられた舌という意味である
主イエスのときから全世界に福音が伝えられ、
神の御言葉が聞こえるようになった(ヨハネ6:68)
○ 「エパタ」とは? 「開け」という意味である
語ってはいけないといわれても、語らないわけにはいかない
恵みの福音は抑えることができない力である
※ 霊的な者ならば、口を開かなければならない
恵みを受けた者には抑えることができない口の証しがある
信じる者は御言葉を聞くことができなければならない

2021. 08. 01. 子どもたちのパンを (マルコの福音書7:24~30)

子どもたちのパンを
(マルコの福音書7:24~30)

神は
恵み深い
その方が
自分だけがもつ永遠のいのちをこの世に公開し、(ヨハネ3:16)
選ばれた民にまず現そうとされた(ヨハネ17:3)
神はイスラエルに律法と預言者を与えられた(出3:10~12)
イスラエルを自分の民とし、聖くされた(出19:6)
イスラエルはエホバの助けを受け、(出19:4~5)
モーセを通して与えられたパンを食べ、岩から出て来た水を飲んだ(ヨハネ6:50)
そのとき、異邦人はエホバの関心を受けることができなかった
エホバはイスラエルの神であった(出3:14~15)
律法の下にいるイスラエルは必ず裁きを
受けるが、(へブル9:27)
イスラエルに裁きを受けさせないために(ヨハネ3:17~18)
イエス、救い主がイスラエルの地に来られた
これは律法と預言者の下にいるイスラエルを救うためであった(マタイ10:5~8)
イエスは公生涯で初めてツロの地方に行かれたが、
そのときはまだ異邦人に福音が許されていないときであった
それゆえ、イエスは子どもたちのパンを小犬に与えることはできないといわれた
イエスがよみがえられたのちに初めて弟子たちを通して
聖霊によって異邦人の地にまで福音が伝えられた
○ イエスはエホバの限界を超え、
エホバの手が届かなかった異邦人に福音を伝えられた
聖霊はイスラエルとそれ以外の全人類に
福音を証しされる
○ 神の子となれば、神の子の栄光を見る
聖霊によって悪霊を追い出せば、その国が来たのである
○ 福音を伝えて悪霊を追い出すのは義務である
主イエスが信じる者にこのような力を義務として与えられた
主イエスが天でともに働き、ともに証しされる
※ 信じる者は神の子である
子であれば、神の栄光を常に見る
無能な信仰生活をしないで、実状をもたなければならない

2021. 07. 25. 人を汚すもの (マルコの福音書7:1~23)

人を汚すもの
(マルコの福音書7:1~23)

神は
まことでおられる
その方が
なさることと与えるものはすべて聖い
湧き水のように常にきれいである(Ⅰペテロ1:15~16)
教会の中で何が汚れていて、
何がきれいであるのか?
人はむなしい習慣や言い伝えられてきた伝統によって
神と遠ざかっている(Ⅰペテロ1:18~19)
「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている
人間の教えを教えとして教えるだけなので、
私を拝んだとしても無駄なことである」(マルコ7:6~7)
東洋人の風習と西洋人の風習が異なるからといって、
どちらが正しい、どちらが正しくないということはできない
目で見るものによってはそのようにいうことができない
北では雪が降るし、南では太陽の光が降り注ぐ
しかし、
木が花を咲かせ、葉をつけ、
そののちには実だけを残すように、
目に見えるものは変わるが、木自体が変わることはない
神は人を外見によって扱われない(使10:44~48)
○ しかし、人の心から出て来るものは汚れている
それは悪い考え、憎しみ、殺人、姦淫、
盗み、ねたみ、あざむき、そしりである
○ 洗わない手で食べるものが汚れているのではない
洗わない心から出て来るものが汚れている
聖霊によらなければ、その心は汚れている
○ 聖霊によってもつ心は愛、喜び、平安、
寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である
聖霊の実、力、賜物に満たされなさい
※ 聖霊によって変えられなければ、その心は汚れている
聖霊によって変えられれば、その心はきれいである
聖霊に満たされるためにさらに多く祈らなければならない

2021. 07. 18. イエス、水の上を歩かれる (マルコの福音書6:45~52)

イエス、水の上を歩かれる
(マルコの福音書6:45~52)

神は
全能な主でおられる
その方が
人として来て、自分の働きをしながら、
自分を知らせた(マタイ9:8)
神は超自然的な方でおられる(マルコ4:41)
自然と比べて理解しようとしないで、(マタイ19:25~26)
神を超自然的な方と理解しなければならない(ヨハネ4:23~24)
イエスは超自然的な方でありながらも、
父なる神との交わりを絶やさないで、
ひとり寂しい所に行って祈られた(マルコ1:35)
聖霊も同じように祈られるのに、(ローマ8:26~27)
私たちはどのようにしなければならないであろうか?
祈りはキリスト教の呼吸であり、命綱である(マルコ9:28~29)
信仰によって私たちの霊魂は
イエスと同じにならなければならないし、その方とひとつとなる(ヨハネ14:12)
これを「ともにする」あるいは「ともに歩む」という(マルコ16:20)
神はどのような方でおられるのか?
恐れがない全能な方でおられる
主の御言葉を求めるというのは
主の品格をもとうとするということである(ルカ1:37~38)
○ 聖霊が私たちの中に入って来られることによって、私たちは生まれ変わり、
肉体の中に聖霊の賜物をもち、
聖霊とともに働く
○ イエスの御言葉が私たちの中に入って来れば、その御言葉によって
イエスがなさる働きをする
神がともにされるように、永遠のいのちがともにする
○ 信仰は自然を超越する
神のものによって死に勝利し、
自然の法則を超越する
※ 自然の法則を超越することができなければ、宗教に過ぎない
私たちの信仰はよみの権勢も打ち勝つことができないものである
神の相続者の栄光を見るものである

2021. 07. 11. イエスの弟子の働き (マルコの福音書6:7~13)

イエスの弟子の働き
(マルコの福音書6:7~13)

神は
この世を愛される
その方が
天にある良いものをもって
この世を愛された(ヨハネ3:16)
神の御子、御言葉、力をもって愛された(ヨハネ1:14)
イエスの教会は人々が修行を積むところではない
神から恵みを受けて救いを受けるところである(使10:43)
神は人のものを奪おうとされるのではなく、(使17:25~27)
愛するものをもって生かそうとされる(マタイ17:5)
私たちがその方のものとなったのであれば、
その方に用いられる(詩100:3)
その方が命じられた働きをする(マルコ3:13~15)
イエスは弟子たちに力と権勢を与え、
ふたりずつ遣わし、
伝道させ、悪霊を追い出させた(マルコ6:7)
弟子たちは何の物品ももたないで、
イエスから与えられた福音と力だけをもって出て行った(マタイ10:8~10)
伝道や宣教においては物質よりも
神の御言葉と力をもって出て行き、(使3:6~10)
聖霊が追いやられる通りに働かなければならない(マルコ1:12)
○ イエスの力は普遍的である
信じる者に当然に伴うしるしである
その方は力がない伝道を命じられなかった
○ 力がない無能な者が働き手として名乗りを上げるのであれば、
宗教を布教するようになるし、いのちを与えることができない
力はいのちであるし、いのちは真理とともに働く
○ 私たちはいのちの御言葉を伝えるし、そのいのちは実状である
神の国の働きは言葉にはなく、力にある
聖霊の助けを受け、力をもって武装しよう
※ 主のしもべとなって、悪霊を身震いさせなければならない
悪霊は聖霊の力に満たされた者を見て身震いする
これは不思議なことではなく、当然なことである