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2022. 04. 10. 天国の福音を信じなさい (マルコの福音書16:12~16)

天国の福音を信じなさい (マルコの福音書16:12~16) 神は 常に生きておられる その方がこの世のために力を遣わし、 さまざまな力によって自分を現し、(マタイ9:1~8) 関心を示された(ヨハネ3:16) 神の中におられる方は御言葉である(ヨハネ1:1~5) 御言葉は完全な人格、知恵、力である(Ⅰヨハネ1:1~4) イエス・キリストは力によって天を現し、御心を現された(マルコ9:1) イエスはその方の御名であり、(マタイ6:9、ピリピ2:10~11) 神の御座の栄光であり、永遠のいのちである キリストは職分であり、委任された権限である(ヨハネ1:20) キリストは人として現れ、(マタイ11:2~6) 苦難を受け、力としるしを現された キリストは十字架で死ぬ権勢、死んだ者の中からよみがえる権勢、 最後に裁く権勢をもつ(マタイ28:18) 万王の王のような職分である(Ⅰテモテ6:15) 神は創造した万有をイエス・キリストの手に預けられた(へブル1:2) イエス・キリストは神の血によって買い取られた者を救われる 苦難を受けたのちに、その名はパラダイスに行った(ルカ23:43) キリストは血を流して墓に納められた(ルカ23:50~56) そののちには助け主の聖霊がキリストの働きをなさる ○ 聖霊がなさる働きはキリストの働きである キリストは聖霊によってよみがえり、現れ、 この世の終わりまでともにされる ○ 助け主とキリストはひとつである よみがえったのちには御言葉が働く 助け主、キリストには完全な力がある ○ よみがえった真理がこの世に現れたが、 弟子たちは信じなかった 神はそれを責められた ※ キリストの死はユダの地で起こったが、 復活はこの世の果てまで起こる どこであってもその方に会えば、バプテスマを受ける

2022. 04. 03. イエスの体 (マルコの福音書15:42~47)

イエスの体 (マルコの福音書15:42~47) 神は 永遠に生きておられる その方が ふところにおられた御子をこの世に遣わして、 人類が受ける刑罰を代わりに受けさせた(ローマ6:8~10) それゆえ、御子は十字架で 血を流して死なれた(ローマ6:11~13) その方が死なれたのちに、 弟子のひとりであるヨセフがピラトに イエスの体の下げ渡しを願った その体は死体ではなく、「ソマ」であった それは王の死んだ体という意味であり、生きている者のように呼ばれた(マタイ27:57~61) ヨセフはピラトの許しを受け、イエスの体を亜麻布に包み、 自分の墓に納めた 主は死なれたが、ヨセフは生きている者のように迎え入れた これは偉大な福音であった 神の御子は死なれたが、その名は生きていて、(マタイ28:6~7) 私たちの霊魂に迎え入れられている イエスはよみがられた これは真理である(ヨハネ20:19~20) これと同じように、聖霊が私たちを生かす ○ 人間の霊魂は墓である 死が支配している墓に誰を迎え入れるのか イエスの名は死体ではなく、体である ○ その方は十字架で死なれたが、生き返られた その名は生きているし、御言葉は生きている イエスの体を十字架につけておかないで、迎え入れよう ○ 聖霊によって迎え入れ、信仰によって迎え入れよう 死んだ者ではなく、生きているいのちを迎え入れよう その方は私たちの中でよみがえられる ※ まことの聖徒は主を迎え入れる 死体ではなく、体を迎え入れる その方は永遠に生きておられる

2022. 03. 27. 裂けた神殿の幕 (マルコの福音書15:33~41)

裂けた神殿の幕 (マルコの福音書15:33~41) 神は 聖なる方でおられる その方が 宇宙万物を造って大空に置かれた(創1:7) 天(霊界)とは異なり、大空には何もなかった(創1:2) 神の天と被造物の空間の間には 上の水という限界がある その限界を超越して天(霊界)に入って行く者は誰もいない 人類が堕落したのちに 血なしには入って行くことができないところを至聖所と呼んだ(へブル9:1~3) 至聖所と聖所の間には幕があった 至聖所には一年に一回、大祭司だけが入って行った それと同じように、イエスによって幕が開けられ、 神の聖所と人がとどまる聖所がひとつとなった(エペソ4:6~10) それゆえ、 神がこの世に入って来られるし、(ヨハネ15:26) 救いを受けた人類が天(霊界)に入って行く(ヨハネ14:1~3) これが「あなたがたが私の中に、私があなたがたの中に」ということである(ヨハネ14:20) ふさいでいた壁に穴を開けるためにイエスが十字架で血を流された 神殿の幕はイエスの肉体である これによってイエスは天に入って行かれたし、(へブル10:19~22) 聖霊は天から下りて来られた(ヨハネ16:7~14) ○ 至聖所と聖所の間にある幕は私たちの罪である しかし、イエスが罪を贖われた瞬間、幕は裂けた ○ イエスは血によって買い取られた聖徒の代わりに天に入って行かれた 聖霊は天の代わりに私たちの中に入って来られた ゴルゴタの丘でなされたことは真理であった ○ 聖霊が私たちの心に入って来られたのは 私たちの救い主が天におられるということを意味する これによって神と私たちはひとつとなった ※ 私たちは宗教と哲学をもって生きる者ではなく、 イエスの血、福音、 聖霊を頼る信仰人である

2022. 03. 06. イエスは何も答えられなかった (マルコの福音書15:1~15)

イエスは何も答えられなかった (マルコの福音書15:1~15) 神は 自存者でおられる その方の 義は永遠である(Ⅰヨハネ2:1) 天下にその方を判断することができる者は誰もいない しかし、人間は神を恨んで判断する それゆえ、 神の御前では義人がいないし、聖なる者もいない イエスが義人であり、判断する方でおられる(ローマ11:33) 判断する主を、この世が判断する 長老や祭司長は宗教的に判断したし、(マタイ27:22~23) ローマやピラトは道徳的に判断した 宗教人は主を金で買って罪に定めたし、 道徳的な者は群集心理を利用して罪に定めた(マルコ15:15) これに対して イエスは何も答えられなかったが、これはすでに判断されたのである(詩94:2) この世では義人が裁きを受ける イエスを十字架につけたのは 十字架が呪いの木であり、忘れさせる道具であったためである それによって イエスを永遠に忘れさせようとしたのである ○ 主を罪に定め、十字架によって永遠に忘れさせようとしたが、 神がその方を生かして思い出させた 聖霊はその方を証しされる ○ イエスの人はイエスの血によっていのちを得たが、 聖霊による証しを受けなければ、証人になることはできない 何も答えられなかった主のために私たちが口を開かなければならない ○ 主イエスを認める者が救いを得る それゆえ、その名によってバプテスマを受ける バプテスマを受ける者はイエスと結びつき、義とされる ※ 主は自分の弁明を聖徒に預けられた この世で虐待を受ける義を誰が弁護するのか その方の義を受け、その方の証人とならなければならない

2022. 02. 27. イエスを否認してはいけない(マルコの福音書14:66~72)

イエスを否認してはいけない (マルコの福音書14:66~72) 神は アルファであり、オメガでおられる その方は アブラハム、イサク、ヤコブが生きているときだけではなく、 その霊魂まで守られる(マルコ12:26) 聖徒の肉体が生きているときだけではなく、 聖徒の肉体が死んだのちにも復活と永遠のいのちのために 霊魂を守られる(ヨハネ11:25~26) 神は最初であり、最後でおられるし、初めであり、終わりでおられる(黙22:13) 私たちの信仰は この世から復活に至るまで約束を受けた信仰である(Ⅰコリント15:12~19) 私たちはこの地でまいて天で収穫するということを信じるし、 肉体をもってまき、霊魂をもって受けるという永遠な契約を信じる(使7:55~60) 主を否認する者は のちの世の望みをもたない者である(マタイ10:32~33) 私たちが眠っていたときに、主は苦難を受けられた 私たちが病気にかかっていたときに、主はむち打たれた(Ⅰペテロ2:24) 私たちが満腹であったときに、主は空腹でおられた(マタイ25:41~46) 主がこの世を離れたとしても、その義は私たちとともにする 恵みの御言葉が常に私たちの中にある(ヨハネ6:68) 聖霊が私たちを助け、望みを保証してくださる(ヨハネ14:16~17) ○ 主イエスを否認してはいけない 迫害が恐ろしくて恥ずかしかったとしても、主を否認してはいけない 肉体が滅んだとしても、主を否認してはいけない ○ 神と結んだ永遠な関係を断ち切ってはいけない この世が主を無視したとしても、否認してはいけない 永遠に主イエスとともに歩もう ○ そのように考えるだけではなく、まことにそのようにしよう 私たちが信じる肉体は衰えていくが、 私たちの霊魂は日々、新たにされなければならない ※ イエスを否認しないで、殉教しよう 殉教者が受ける第一の復活の栄光を慕い求めよう 信じる者がもつ望みをしっかりとつかんで、殉教するために出て行こう

2022. 02. 20. イエスに対して偽証する (マルコの福音書14:53~65)

イエスに対して偽証する (マルコの福音書14:53~65) 神は まことでおられる その方は 義を御座の基とされた(詩89:13~14) それゆえ、万有はその前で裁きを受ける(へブル10:30~31) 神は唯一の霊でおられる(ヨハネ4:24) 天はその方の本体であり、御座である(へブル1:3) 万有を造った方は白い御座に着かれる 神のほかに神は存在しない(ヨハネ17:3) 万有は白い御座の前で裁きを受ける(黙20:11~14) 誰が罪人であろうか? イエスをひざまずかせた者であろうか 彼らの前でひざまずいて嘲笑を受けられた方、 柔和なイエスであろうか イエスを罪に定めた議会が聖いであろうか 白い御座に着く方が聖いであろうか(黙4:2~8) 義と不義は光と暗やみのようにはっきりと区別される イエスは人類の罪を負われた(Ⅰペテロ2:4) イエスを否定して信じない者は罪人である(ヨハネ3:17~18) イエスを迫害して嘲笑する者は呪いを受けた者である イエスによって義と不義が区別される(ローマ3:4) ○ イエスが罪のない義人でおられるということを証しするのは イエスを死んだ者の中から生き返らせた、 父なる神でおられる ○ イエスは教会のかしらでおられるし、教会はその方の体である それゆえ、教会は聖くなければならない 迫害を受けたとしても義によって受けなければならない ○ イエスの名のために迫害を受けるのは 恥ずかしいことではなく、義の冠である 恵みを受けた者は迫害をともに受ける ※ イエスの名にひざまずこう その名を受け、その名によってイエスに栄光をささげよう 主は私たちの救い主でおられる

2022. 02. 13. イエスを捨ててはいけない (マルコの福音書14:43~52)

イエスを捨ててはいけない (マルコの福音書14:43~52) 神は 公義でおられる その方は 自存者でおられるし、最初であり、最後でおられる(黙21:6~7) それゆえ、神には隠れるところも 逃げるところもない 神は自分を否定することができない唯一の方でおられる それゆえ、 自分が語ったことのために自分を指して誓う、(へブル6:13) 完全無欠な方でおられる イエスは父の本体のまことのかたちでおられる(Ⅱコリント4:4) 神と人間が別れるのは人間が離れてしまうためである(創3:9~13) 人間はどんなに弱くて忌まわしいであろうか それゆえ、神は信仰という真理を知らせた(ヨハネ8:32) 「主よ。私から離れないでください」というのは矛盾である 人間が自ら離れるのであって、 神は常にその場におられる(ヨハネ14:16) その場とは天であるし、天とは本体、御座である(詩89:13~14) 「甘ければ、口に入れるし、苦ければ、吐き出す」というのは人間の属性である 神を恨むのは自分が堕落したためである 聖霊は私たちとともにおられるし、御言葉も御名もともにおられる(ヨハネ1:12) ○ イスカリオテ・ユダは悪魔であり、その手先であった 他の弟子たちは背いた者であり、愚かな者であった イエスを捨てて離れれば、悪魔と死が歓迎する ○ 死ぬときに主のふところの中で死んでこそ、救いを受ける 聖霊はその人を永遠に守られる 恐れと卑屈は悪魔の属性である ○ 若いときにも、大人になっても、年老いても、主の中で生きるために イエスの中にとどまっていなさい 悪魔は離間者であり、私たちが主人を捨てるように離間する ※ 離れてはいけないし、試みに陥ってはいけない 神は永遠にその場におられる 心や考えにおいても堕落してはいけないし、(松竹岩ソンチュグァム)のようでなければならない

2022. 02. 06. 目を覚まして祈りなさい (マルコの福音書14:32~42)

目を覚まして祈りなさい (マルコの福音書14:32~42) 神は 常に耳を傾けておられる その方が この世を造って、この世と交わろうとされる(イザヤ62:6~7) 神は霊でおられるし、この世は物質、すなわち肉体である 神の霊と肉体が交わる道はただひとつ、(マタイ6:33) 祈りである 祈りは神が知恵をもって定められたものである 神を知るのが知恵の初めである(箴1:7) 神の民と神の子が祈れば、(Ⅱ歴6:18~21) 神は常に耳を傾けて聞かれる(Ⅱ歴6:24~27) 祈りが神に受け入れられないのは 試みに陥ったためである(マタイ26:41) それゆえ、試みに陥らないように目を覚まして祈らなければならない 試みは試みる者である悪魔によって支配されることである(ルカ22:31) 悪魔の惑わしに陥らないで、祈らなければならない 神は常に聞いて、応答を与えられる(Ⅰヨハネ5:14~15) 聖霊も祈って、とりなされる 天使も祈る者を力によって助ける(黙8:3~4) 聖霊によって祈る者が自分の霊魂を守る(ローマ8:26~27) ○ ゲッセマネでのイエスの祈りによって 神の御心がなされた イエスはこの世の考えに勝利された ○ イエスが切に祈られたときに、汗が血のしずくのように地に落ちた このとき、天使も主の祈りを助けた 目を覚まして祈ることによってだけ、自分の信仰を守ることができる ○ 応答を受けるときまで続けて祈らなければならない 落胆しなければ、祈りが届く 自分の要求通りになされなかったとしても、応答は受けた 神の御心通りになされた ※ 祈りによって生活しなければならない 試みに陥らないように教会も家庭も祈ろう、祈ろう!

2022. 01. 30. イエスの御言葉を聞きなさい (マルコの福音書14:27~31)

イエスの御言葉を聞きなさい (マルコの福音書14:27~31) 神は 唯一の父でおられる その方が 天(霊界)と宇宙の中に霊と物質を創造された その方はそれらの上にいる方であり、 唯一の神でおられる それゆえ、その方は語った御言葉を変えることなく、 すべて成就する、絶対不変な神でおられる(民23:19~20) 神の御言葉は天地万物にとって抑圧ではなく、 豊かに与えようとする約束である(詩105:5~6) 神が偽りを言うのではないか、約束を破るのではないか と疑うのはサタン的である サタンの属性は神を疑うことである(マタイ4:7) 神が私たちの中におられ、私たちがその中にいるのであれば、 私たちもその方のように永遠であり、完全である(ローマ12:1~2) イエス・キリストを、神から遣わされた神の御子と(ヨハネ20:30~31) 知るのであれば、その方との交わりをもつし、 その信仰が変わることはない そうすれば、神も私たちを信頼して、ともにされる(マタイ28:20) 神と私たちの関係は信仰と信頼である 聖霊はこの永遠な関係を保存するために来られた(ヨハネ14:15~17) ○ 人間は一晩のうちに何回も変わってしまう 神との関係が試みにあう 私たちが受けた力とは信仰と信頼の証しである(マルコ16:20) ○ 人にとって誓うというのはだまされるということである どのような誓いも信頼することができない 神を信じなさい、永遠に信じなければならない ○ 神を失望させないためには 人の信念よりも霊と真理によって仕えなければならない(ヨハネ4:23~24) 聖霊によってだけそのようにすることができる ※ 聖霊によって生まれ変わる前にはどの肉体も信頼することができない(ヨハネ3:3) 徹底的に悔い改め、 聖霊の力を受けて信仰生活をしよう

2022. 01. 23. イエスの晩餐 (マルコの福音書14:22~26)

イエスの晩餐 (マルコの福音書14:22~26) 神は 永遠でおられる その方が イエス・キリストをこの世に与えられた(ヨハネ17:3) イエスがこの世に来られたのは仕えられるためではなく、 むしろ命を与えて仕えるためであった(マタイ20:28) それは永遠の前から定められていたが、(エペソ1:9) ついに御言葉が肉体となって現れた(ヨハネ1:14) 預言者の口を通して伝えられたその契約の御言葉が(ルカ1:70~75) ついにインマヌエルとしてこの世に現れた(マタイ1:23) その方は30年間、この世を体験された(ルカ3:23) そして、公生涯をもつ間に続けて語った通りに 十字架につけられて死なれた(マタイ16:21) このときまで この世に存在するものはすべてその方のために備えられていた(詩100:3) それゆえ、主が食べたり飲んだり乗ったりしたものはすべて このとき、別れを迎えた 主は愛する弟子たちと晩餐をもちながら、 「ぶどうの実で造られた物を飲むことはない」といわれた(マルコ14:25) ただ天で新しいものを飲むと預言された これは聖霊によってよみがえるという意味であった ○ イエスには霊的な食物があった これはなすべき戒めとして与えられた、 神の御心であった(ヨハネ4:34) ○ イエスは聖霊によってよみがえり、永遠な息を吹きかけ、(ヨハネ20:21~22) 弟子たちにも同じ霊的な食物を勧め、 「聖霊を受けなさい」といわれた ○ 聖霊充満とはこの地の食物ではなく、 永遠な食物として、永遠のいのちのために 神の御心をなすことである(ヨハネ7:37~39) ※ 晩餐は夜の食事である 主はこの世の食事を終え、暗い夜が過ぎた早朝に聖霊によってよみがえられた 私たちも主とともにしよう