2022. 05. 29. 永遠のいのちを得る信仰(ヨハネの福音書3:16~21)

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永遠のいのちを得る信仰
(ヨハネの福音書3:16~21)

神は
唯一の父でおられる
その方は
義であるために、正義をもって判断される(詩89:14)
神がこの世にひとり子を遣わされたのは
神の義を見せるためであった
ひとり子を信じる者は永遠のいのちを得たし、(ヨハネ3:16)
ひとり子を信じない者はすでに裁きを受けた(ヨハネ3:18)
神の義は光として現れた
イエス・キリストは光として来られた(ヨハネ8:12)
それゆえ、
信じる者は光に出て来るし、
信じない者は光を憎んで嫌う(ヨハネ3:19~21)
神の光は栄光であり、天の光である(ヨハネ1:14)
暗やみはこの世であり、死の影である(ローマ5:12~14)
それゆえ、
私たちが受けたバプテスマは私たちを暗やみから栄光に移すものであり、
霊魂を死からいのちに移すものである(ローマ6:1~7)
よみの暗やみはすでに裁きを受けた
天から追い出された悪魔は刑罰の日まで
そこに閉じ込められる(ユダ1:6)
○ 神がこの世を愛されたのは私たちを
すでに裁きを受けたよみから天に移して、
裁きを受ける者が受ける刑罰から救うためであった
○ このためにひとり子を犠牲にして血を流させ、罪を贖った
この尊い血は天の栄光であり、
ひとり子の栄光であり、恵みと真理に満ちている
○ 光を愛するのであれば、永遠のいのちを得る
光を嫌うのであれば、すでに裁きを受けたし、
その霊魂の前には地獄に行く道だけが置かれている
※ 永遠のいのちを得なさい
そのためにイエスを信じなさい
これによって栄光の光に入って行く

2022. 05. 22. 何を信仰というのか (ヨハネの福音書3:11~15)

何を信仰というのか
(ヨハネの福音書3:11~15)

神は
まことでおられる
その方が
この世に現された御言葉はまことであり、真理である(ヨハネ14:6)
真理は人の知恵や常識をいうのではなく、
神だけが語ることができる御言葉をいう(ヨハネ8:45~47)
神を見た者はいない
どのようにして神を見て信じることができるであろうか
イエスだけが神を見たし、その方だけが知るのが御言葉である(ヨハネ3:13)
この地にある道理を使ってたとえをもって語ったとしても信じないのに、
どうして天の真理を信じることができるであろうか(ヨハネ3:12)
それゆえ、
信仰は見たり触ったりして知るものではない(ヨハネ20:29)
語られた方を認め、権威を認めてこそ、(マタイ16:16~17)
信仰という正解が出て来る
モーセが荒野で青銅の蛇を木の上につけたのが(民21:8~9)
どうして救いとなるであろうか
これはたとえである(へブル9:9~10)
これが「呪いを受けた罪が木で死んでこそ救いを得る」という
信仰となる(ガラテヤ5:24)
十字架でのイエスの死によって私たちの罪が死んだ
○ 根拠なしにただ自分の信念によって
「信じます」というのは迷信である
神が定められた御心通りになされるのが救いである
○ 神が天でなされた御心を、どのようにしてたとえをもって語ることができるであろうか
モーセを通して荒野でなされた御心を、どのようにしてたとえをもって語ることができるであろうか
信仰によってだけその真理を悟る
○ 私たちが救いを受ける信仰は
神が天で確定したことを土台とするものであり、
それを神がなさる働きとして信じるものである
※ 神がなさる働きを人の知恵によって知ろうとしてはいけない
神がなさる働きが真理である
私たちの霊魂はその真理によってだけ救いを得る

2022. 05. 15. 信仰は証しである (ヨハネの福音書2:23~25)

信仰は証しである
(ヨハネの福音書2:23~25)

神は
生きておられる
その方が
この世に御言葉を与えられたのは信仰を与えるためであった(へブル11:1~3)
信仰は人の信念ではなく、はっきりとした証しである(Ⅱコリント13:5)
イエスが現されたしるしによって、その名が広まった
その名を知る者は多かった(マルコ1:28)
しかし、
救いに至る信仰は
うわさによってはもつことができない
その名を信じて迎え入れた者だけが救いを得る(ヨハネ1:12)
信仰の証しとは
イエスを自分の主人として迎え入れることである(ヨハネ6:68)
しかし、
イエスには自分を預ける者がいなかった
人々には自分を迎え入れる信仰がないということを主は知っておられた(へブル11:6)
信仰がない者が「主よ、主よ」というのは(マタイ6:5)
迷信を信じる者が唱える呪文のようなものである(マタイ6:7)
信仰がない者は主を喜ばせることができない
ただイエスの名にひざまずいて従わなければならない(ピリピ2:10~11)
このような人に証しがある
神は印を押して、保証として
聖霊を心に与えられた(Ⅱコリント1:20~22)
○ 聖霊は私たちが
神の子であるということを証しされる
○ 神が求められる証しは信仰告白である
信仰告白がない者からは何の証しも受けられない
○ イエスの名をうわさによって聞いて知るのではなく、
完全に心を開いて迎え入れなさい
自分の心に主がおられるということを試して確証しなさい
※ 神がこの世に御言葉を与えられたのは
御言葉に従って自分の信仰を確証させるためであった
キリストが自分の主人でおられるということを証ししなければならない

2022. 05. 08. 完全な信仰 (ヨハネの福音書2:1~11)

完全な信仰
(ヨハネの福音書2:1~11)

神は
良い方でおられる
その方が
この世に恵みを施された
神の良さ、喜び、完全さによって(ローマ12:1~2)
救いを得させた(ローマ10:13~15)
イエスはアブラハムとダビデの子孫であり、
ナザレ人であり、母に仕えた(ヨハネ2:1)
イエスは良い働きの第一歩をカナの婚礼で
母の要請によって現された(ヨハネ2:3~5)
その方は自分がこの世に来た御心をなす前に、
一般的なしるしを現すことによって自分を現された
まだ自分の時ではなかったが、(ヨハネ2:4、17:1)
母のために、また、ともにいた弟子たちのために現された
弟子たちは主が現されたしるしを見て、その方を信じた(ヨハネ2:11)
しかし、
しるしを見て信じる信仰は初歩的なものである
それゆえ、成長した信仰に至らなければならない(へブル5:12~14)
成長した信仰は御言葉を聞いて信じる信仰である
信仰は聞くことからはじまり、聞くことは
神の口から出て来た御言葉による(ローマ10:17)
○ しるしを見て信じる信仰には祝福がない
見ないで聞くことによって信じる信仰に祝福がある
主イエスの御言葉を信じなければならない
○ 主イエスの御言葉は聖霊によって証しを受ける
聖霊は真理の霊でおられる
真理は私たちの霊魂を生かす信仰となる
○ イエスが来られたのは霊魂を救うためであった
一般的なしるしは霊魂の救いのためのものではない
かたくなな者のための良い働きである
※ 神は罪人が救いを受け、神に出て来ることを喜ばれる
これがその方が受けられる栄光である
イエスの血の恵みを肉体のために使わないで、霊魂のために使おう

2022. 05. 01. 神の御子を信じなさい (ヨハネの福音書1:43~51)

神の御子を信じなさい
(ヨハネの福音書1:43~51)

神は
三位一体でおられる
その方が
愛する御子をこの世に遣わされた(ヨハネ3:16)
これはこの世に御子を信じさせ、救いを得させるためであった
御子を信じる者はその方が
神の御子、キリストでおられるということを信じなければならない(ヨハネ17:3)
この世の人々は
イエスをナザレ人、大工の息子と知る(マタイ13:55)
その方は確かにアブラハムとダビデの子孫でおられるが、(マタイ1:1~16)
人々はその方を人の子孫と知るために、
救いに至ることができない(マルコ3:21)
救いは
神から与えられた信仰によってなされる(マタイ16:16~17)
神から与えられた信仰は
イエスがキリストでおられるということを信じるものである(ヨハネ17:8)
「メシヤ」とは
へブル人が待ち望んだ、へブル人の救い主という意味である
「キリスト」とは
全人類が待ち望んだ、人類の贖い主という意味である(ヨハネ4:25)
いちじくの木はイスラエルの国樹であるが、
その下にいるというのは律法の預言の下にいるという意味である(ヨハネ1:50)
○ 人の常識や知恵によって信じようとしないで、
主イエスの御言葉を信じ、
自分が罪人であるということを悟りなさい
○ イエスは人類の霊魂を救うために来た、
キリストでおられる
これは神から遣わされた者という意味である
○ 救いは
神から出て来るし、恵みによって受ける
※ イエスは私たちの霊魂を罪から救われる
復活を味わわせ、永遠のいのちを得させる
イエスが神の御子でおられるということを信じなければならない