엔트리 Berea Japan

2021. 06. 20. イエス、郷里で排斥を受けられる (マルコの福音書6:1~6)

イエス、郷里で排斥を受けられる (マルコの福音書6:1~6) 神は 御子を愛される その方が 愛する御子をこの世に遣わして、 「父の御心を行いなさい」という戒めを与えられた(ヨハネ10:15~18) 御子は人類を罪から救うために来られた(ヨハネ6:39~40) イエスはアブラハムの子孫としてお生まれになったが、(マタイ1:1~17) 神の御子であり、人間の血統によってはお生まれにならなかった(ヨハネ1:13) その方の郷里をナザレといったが、 本当の故郷はよみの外にある天であった(ヨハネ14:1~2) 郷里の人々は肉体によって生まれたために、 聖霊と御言葉によって生まれた方を知ることができなかった(ローマ8:5~6) それゆえ、 その方は本質的にこの世から歓迎を受けることができなかった(ヨハネ8:40) この世は悪魔に属していて、その支配を受けている(ヨハネ8:44) 天は神の本体であるし、神の御心がある イエスが真理を語られたとしても、 郷里の人々はそれを聞き取ることができなかったし、 その出身と身分の低さによってイエスを無視しようとした(Ⅰヨハネ4:5~6) イエスは力が足りなかったために排斥を受けられたのではなく、 この世が担うことができなかったために排斥を受けられたのである(ヨハネ3:16~18) ○ イエスは信じない郷里の人々の前では 何の力も行われなかった 力としるしは信じる者にだけ伴う ○ 今日、道徳的に判断して、 真理を排斥する 真理が排斥を受けるのは当然なことである ○ イエスが心を痛められたその経験を真理と知って、 私たちもそれと同じ排斥に耐えなければならない 心を開かない者には無理やりに力を行ってはいけない ※ それは真珠を犬に与えるようなものであり、 豚の首にかけるようなものである 戸を開いて祝福を受け入れる家で力を行おう

2021. 06. 13. 恐れないで、ただ信じなさい (マルコの福音書5:35~43)

恐れないで、ただ信じなさい (マルコの福音書5:35~43) 神は 全能な方でおられる その方が この世に御子を遣わされたのはこの世を救うためであった(ヨハネ3:16) 御子は御言葉が肉体となって来られた方である(ヨハネ1:14) 御子は父とともに創造者であり、(ヨハネ1:2) 天と地とその権勢をすべて得られた方である(マタイ28:18~20) イエスには不可能なことがない(ヨハネ11:40) 病気にかかった者や死んだ者を生かされる(マタイ8:7~8) これはイエスの名の意味であり、完全な救いである(使2:38~39) この世は信念を頼ったり、占いをしたり、(Ⅰサムエル28:7) 科学を盲信したりして、自ら奴隷となっている この世はすぐに変わっていく(マタイ24:35) この世に永遠な約束はない しかし、 神は永遠でおられるし、その御言葉は永遠な約束である(黙21:5~7) 神を恐れないで、(マルコ5:36) この世のことを恐れないで、(マルコ4:40) 主イエスを信じるのがいのちである(ヨハネ14:6) これよりも完全無欠な契約はない 人の子となった方が木につけられて死んだのちに 生き返られたが、これが証しである(ヨハネ20:19~23) ○ 疑いながらイエスに近づくのは死んだ信仰である 信仰に自分の命を預けなければならない ○ 信じたことはどの場合にも疑ってはいけない 信仰に自分の一生をかけなければならない 永遠に生きている主がその信仰を守られる ○ 神の力の前では問題の大小はない 神の本体である天には永遠な力がある 信仰を得たというのは力を得たということである ※ 悪霊を恐れてはいけない 患難を恐れてはいけない 自分の霊、魂、体を主に預けなければならない

2021. 06. 06. あなたの信仰があなたを救う (マルコの福音書5:21~34)

あなたの信仰があなたを救う (マルコの福音書5:21~34) 神は 天におられる父である その方が この世にすばらしい救いを与えられた(へブル2:3) 神の御名を信じる者に永遠のいのちを与えられた(使4:12) 神の御名である「イエス」が私たちの信仰である(ヨハネ20:31) 神の御心が私たちの信仰である(ヨハネ6:33~40) 神の御言葉が私たちの信仰である(へブル11:3) インマヌエルでおられる方が私たちの信仰である(マタイ1:21~23) 神から与えられた権勢、力が私たちの信仰である(マタイ10:1) 私たちに与えられた信仰はどのようなものであろうか? 私たちは神の御子がなさった働きをする(ヨハネ14:12) この世に公開されていない、それよりも大きな働きをする それゆえ、信じる者には不可能なことがない(マルコ9:23) 神から与えられた信仰を用いて、(マルコ5:34) 自由を得なければならない(ヨハネ8:36) イエスは御言葉によって病気を癒された(マタイ8:16) 御言葉によって悪霊を追い出された 手を置いて病気を癒された(マルコ5:41) イエスの体に触った者も癒しを受けた(マルコ5:27~28) 神の国は言葉にだけあるのではなく、 力にある(Ⅰコリント4:20) ○ 聖霊を私たちの心に与えてくださったのは 神の働きを現させるためである ○ イエスは御言葉を伝える働き、 病気を癒す働き、悪霊を追い出す働きを並行してなさった キリスト教会は実状である ○ 力をもたないで道徳や倫理だけをもつのは宗教である 宗教は徳を積むが、永遠のいのちの力をもたない 誇るものをもたない ※ 私たちの信仰は実状である 現実的にいつでもどこでもその力を受けることができる 私たちの信仰は誰が何と言っても、力である

2021. 05. 30. イエスと悪霊 (マルコの福音書5:1~20)

イエスと悪霊 (マルコの福音書5:1~20) 神は すべての霊の造物主でおられる その方が 天(霊界)では天使を造り、 この地では獣や人を造られた 人はその方のかたちにしたがって、そのかたちとして造られた(創1:26~27) 人の霊は天(霊界)でひとつだけ造られた(マラキ2:15) そして、 神がアダムというひとりの男を選んで、いのちの息を 吹き込まれたが、その人が生きた霊となった(創2:7) この地で造られたものの中で、生きた霊はただひとつである それゆえ、人は土と霊を兼ね備えた、生きた霊である(詩42:1~3) 堕落した者の生きた霊は悪霊となる(マタイ12:43~45) 聖なる者の生きた霊は永遠のいのちに入って行く(ルカ23:43) これはあまりにもはっきりとした事実である(ヨハネ5:25~29) イエスがこの世に現れたことによって、悪霊はその正体を現し、 恐れ、追い出されたし、悪霊によって 病気にかかっていた者は救いを受けた(ルカ8:32~36) 聖霊がなさる働きは悪霊を制する働きである(マタイ12:28) 悪霊は人の体から追い出されれば、底知れぬ所(地獄)に 落とされるのではないかと身震いする(ルカ8:30~31、マタイ8:29) ○ それゆえ、悪霊は豚の中に送ってくださいと求めた イエスがそれを許されると、一瞬にして2000匹の豚を湖に落として 全滅させたが、これが悪霊の性質である ○ 悪霊が存在しないということが科学文明によって解明されたことはない 科学は悪霊を探し出すことができない(Ⅰコリント2:14~15) 科学が天(霊界)を見ることができないのと同じである ○ イエスの御言葉とその名は全知全能であり、神の光である その前で現されないものはない(ヨハネ1:4~5) すべての流行病と病気の原因は悪霊である ※ 私たちの信仰は科学よりも高い水準の知識である 造物主の権勢を霊魂に迎え入れる(使10:38)  イエスは「信じる者は悪霊を追い出しなさい」といわれた(マルコ16:17~20)

2021. 05. 23. 恐れに勝利する信仰 (マルコの福音書4:35~41)

恐れに勝利する信仰 (マルコの福音書4:35~41) 神は 造物主でおられる その方が 万物を創造し、それらが存在することができるように 生と死、祝福と呪いを主管される(申30:19~20) 宇宙だけでなく、その中にある森羅万象が 現在も造物主が定めた通りにその位置を守っている(創1:7、9、11、14) 科学はすべてを自然と解釈するが、 私たちは造物主の御心と信じる(Ⅰコリント12:11) これは信念ではない イエスは十字架の死からよみがえったのちに 聖霊によって実状を証明された(ヨハネ20:19~23) 私たちは天が霊であり、(ヨハネ4:23~24) 神の本体であるということを知って、信じて、霊によって礼拝をささげる 神は天でなされた御心をこの地でもなすために(マタイ6:10) 神の本体のかたちをこの世に遣わされた(ピリピ2:6~11) イエスは天の栄光であり、そのいのちでおられる(ヨハネ1:14) 悪霊もその方を知って身震いする(ヤコブ2:19) 風も海も木も魚もパンも その方の御心に服従する 聖霊は天の力としるしを現される(使10:38) ○ 私たちはその権勢と力である御名を迎え入れた しかし、その名が眠れば、人類は呪いを受ける 信じる者がその名を信じなければ、恐れに屈する ○ イエスの名を迎え入れながらも患難の前で恐れるのであれば、 不信仰であり、無能な宗教である イエスの名を迎え入れた者はイエスの名の権勢をもつ ○ 信じる者の霊魂は権勢をもつ イエスはその名によって私たちの中で働いておられる イエスの名にひざまずき、絶対的に信じなさい ※ イエスの名は天のすべての権勢を現す イエスの名は生きている実状であり、永遠のいのちである 信じる者よ、宗教人の信念をもたないで、信仰をもとう

2021. 05. 16. からし種のようなイエスの名 (マルコの福音書4:26~32)

からし種のようなイエスの名 (マルコの福音書4:26~32) 神は 大いなる方でおられる その方が この世に種をまかれたが、 それは神の御名であった エホバの名は天使がイスラエルの神となるときに 知らされた名であった(ホセア6:3、使7:30~33) エホバの名はイスラエルを救って、エジプトからカナンまで 肉体を導いた(出3:8~10) それによってその働きは終わった(ホセア12:3~5) そして、それよりも大いなる名、(へブル1:4) イエスの名がこの世に知らされた(ヨハネ14:26) イエスの名は三位の御座の名であり、 神の本体である天の名であり、(へブル1:3) 真理と御言葉の名であり、(ヨハネ14:6) 万物がひざをかがめる、高い方の名であり、(ピリピ2:10) 救いのための狭い門の名であり、(使2:38~39) 救いのための険しくて狭い道の名である(使9:4~5) 神がこの名のほかに救いの名を 人間に与えられたことはない(使4:12) 聖霊はこの名によって来られた ○ 神はこの世で最も小さな町であるベツレヘムに落ちた種、 からし種のような小さな名によってこの世が救いを受けることを願われる イエスの名はこの世に埋められた人の名ではない ○ イエスの名はすべての人が巣を作る、天の名である 父なる神の名であり、御子と聖霊の名である 「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ」 ○ イエスという名を人の名と覚えるのであれば、 呪いを受け、地獄の火に入って行く 神の御名と信じるのであれば、永遠のいのちを得る ※ 自分の中にからし種のようなその名が根を下ろしているであろうか? 自分の中に天国の名が満ちているであろうか? からし種のような小さな名にひざをかがめなければならない

2021. 05. 09. 真理は現さなければならない (マルコの福音書4:21~25)

真理は現さなければならない (マルコの福音書4:21~25) 神は 誰も目で見ることができない霊でおられる その方は 被造物に自分を知らせた それは御言葉によってであり、恵みと真理によってであった(ヨハネ1:14) それゆえ、永遠のいのちは唯一のまことの神と その方が遣わされた者を知ることであるといわれた(ヨハネ17:3) 宗教は悟る哲学であるが、 私たちが受けるのは信仰と体験である(Ⅰコリント4:20) 救いは実状であり、現実であり、永遠である(ヨハネ16:7~11) 福音を聞いたのであれば、 その光を照らさなければならない(マタイ28:19~20) 灯りは隠さないで、燭台の上に置く 光がさらに照らされるように高いところや鏡の前に置く(マルコ4:21) しかし、 天国の奥義である真理について何も知らなければ、 それを現さないで、枡の下に置いて隠そうとする(マルコ4:25) 真理を知って信じるのであれば、 燭台の上に置くように自分の口で現す(使7:54~60) しかし、 聞いて悟りながらも信じなければ、 自分の霊魂に満ちた真理を現そうとしない このように 聖霊によって真理を知る者の前には弟子がいる ○ 真理の人はあらゆる国の人々を弟子とする 悟りながらも弟子がいないのであれば、消えた灯りである ○ 神が人の子を通して御言葉を現されたように、 真理は隠すものではなく、現すものである ○ イエスが聖霊によって自分を現されたように、 真理はこの世の果てまで光を伝えるものである ※ 悟りながらも現さないのは 自分の中に真理がないためである 聖霊と賜物によって真理を現して、人々を弟子としよう

2021. 05. 02. 真理とたとえ (マルコの福音書4:10~20)

真理とたとえ (マルコの福音書4:10~20) 神は まことでおられる その方が 御言葉によって万物を創造して保たれる(ヨハネ1:1~3) 御言葉は永遠のいのちであるために、霊的な存在は御言葉によって生き、(ヨハネ6:68) 神とともにとどまる(ヨハネ8:31) 永遠のいのちの御言葉は真理である(ヨハネ14:6) この世はこの奥義を知ることができないために死ぬ 真理を知って信じる者には 神の子とされる権勢が与えられた(ヨハネ1:12~14) モーセに知らされた幕屋は天の模型であり、たとえであった イエス・キリストの影であった(へブル9:1~10、ヨハネ2:19~22) イエスは父の本体のかたちであり、真理でおられる(ピリピ2:6~8) 聖霊は真理の霊であり、私たちの中に入って来られる(ヨハネ16:13~14) 霊魂の中に入って来ることができないものはすべてたとえである(ルカ8:9~10) たとえは聞いたとしてもサタンが奪っていく ある人は御言葉を肯定的に聞くが、迫害に 耐えることができないで、根を張らない種のように枯れてしまう ある人は富の惑わしや欲望に陥って、 実を結ぶことができない 聖霊によって働く御言葉が真理である(ヨハネ8:32) ○ 神が「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」といわれた方が 真理であり、永遠のいのちである 聖霊がこれを証しされる(ヨハネ15:26) ○ たとえによっては救いを受けることができない 律法や預言者は救うことができないし、たとえは救うことができない イエスもたとえによって語られたが、たとえには救いがない(マルコ4:11~12) ○ イエスのたとえは悟らせるためのものに過ぎない 聖霊だけが真理を語って救う 律法と預言者はバプテスマのヨハネまでであった ※ まことの神の子となることができないのは たとえを食物とするためである 真理の聖霊によって養育を受けてこそ、まことの信仰を告白する  

2021. 04. 25. イエスの教訓 (マルコの福音書4:1~9)

イエスの教訓 (マルコの福音書4:1~9) 神は 実存でおられる その方の御言葉は 生きている、いのちの御言葉である(ヨハネ6:63) 聖書は旧約と新約に区分されている 旧約にはモーセと預言者の教えがある モーセはイスラエルのために律法を受けて伝えた(出20:1~2) 預言者はイスラエルの未来を預言した(民11:28~29) モーセと預言者が受けたのは主に幻であった(使2:15~21) 天使から聞いて学んだものであった(使7:53) エホバという天使は主イエスが来られるときまで イスラエルの神として任務を任された(ガラテヤ3:19) イエスが来られたのちには 天国の福音がすべての人に宣べ伝えられた(マタイ4:17) この福音は全人類の救いの福音である 天使が伝えた言葉と幻はたとえであり、 実状を見ることができないで伝えられたものであった それゆえ、悟る者がいなかった(ヨハネ5:33~34) イエスはそのたとえを悟らせるために たとえによって教えられた(マタイ13:1~8) 神とイスラエルの間では天使がたとえによって語った(へブル9:1~10) この世と天使が伝えた律法や預言者の言葉の間では イエスがたとえによって語り、悟らせた(ヨハネ16:25~31) ○ イエスの御言葉と私たちの霊魂の間では 聖霊が実状を語られたが、これが真理である(ヨハネ16:7~14) 聖霊は真理の霊でおられる ○ たとえは信じるものではなく、悟るものである(マタイ13:23) たとえを聞いて悟る者は良い地である ○ 真理は悟るものではなく、信じるものである(ヨハネ4:21~26) 聖霊はたとえではなく、実状を語られる ※ たとえを悟って目を開き、 真理を信じて従うのであれば、 神の御言葉(ロゴス)が私たちの心にとどまる

2021. 04. 18. 神の御心を行う者 (マルコの福音書3:31~35)

神の御心を行う者 (マルコの福音書3:31~35) 神は 義でおられる その方が 定められた御心を義と信じる者は義とされる その御心に逆らう者は不義となる イエスはアブラハムの子孫の中に来られたが、 神の御心に従って来た方であり、(ヨハネ1:13~18) インマヌエルの神でおられる(マタイ1:23) 同じ母から生まれた兄弟であっても、 血や肉の欲求や人の意欲によって生まれた者と 神の啓示や御心によって生まれた者は異なる その方はアブラハムが生まれる前からおられる(ヨハネ8:58) 初めから終わりまで神とともにおられる(ヨハネ1:1~3) 私たちはこれを信じる イエスが人間であるのか、神でおられるのかを はっきりと告白しなければならない(ヨハネ20:31) イエスは人でおられるが、人間ではない(マタイ22:45) 御言葉が肉体となって来た方でおられる(ヨハネ1:14) それゆえ、 イエスは「肉体の家族であっても、(ローマ1:2~4) 私を認めてこそ、私の家族である」といわれた(マルコ3:34~35) ○ 自分の徳や良心を頼って、 イエスが誰でおられるのかを知ることができなければ、救いを得ることができない イエスを神の御子と信じる者だけが救いを受ける ○ 宗教の良心によっては絶対に永遠のいのちを得ることができない ただ福音を信じてその信仰を告白してこそ、永遠のいのちを得る 聖霊は信仰を告白した者に印を押して保証される ○ イエスが人間でおられたのであれば、 その死は自分ひとりのための死であったし、その方が救い主になることもなかった その方が人として来たキリストでおられるということを信じてこそ生きる ※ 救いに至る信仰には 宗教的な良心も家族の縁も必要がない イエスが天から来た救い主でおられるということを信じなければならない