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2020. 11. 22 十字架の効力 (ヨハネの福音書3:11~15)

十字架の効力 (ヨハネの福音書3:11~15) 神は 御子から栄光を受けられる その方は ふところにおられた御言葉をこの世に遣わされた(ヨハネ1:14) 御言葉が肉体となって、インマヌエルとして来られた(マタイ1:23) イエスだけが父を見たし、父を知っておられる 御子は父の本体の栄光でおられる(Ⅱコリント4:4) 神の本体は霊であるし、霊は天である(ヨハネ8:23) その方がこの地に来られたのは父の御心を行うため、 十字架で血を流すためであった(ヨハネ8:23) 私たちはこれによって天の血を見たが、その血はいのちである 神の血はいのちであり、霊である(ヨハネ6:63) 人と獣の血は水である 水のようなものによっては罪を贖うことができない 神の血、いのちによってこそ罪を贖うことができる 蛇は呪いを受けた者であり、この世が忌避する者である(創3:14) その呪いを受けた者が木につけられて再び呪いを受けた(ガラテヤ3:13) イエスが死なれた十字架は呪いの中の呪いであった(マタイ16:24~25) その方が十字架につけられたことによって 私たちは救いを受けるし、永遠のいのちを得る(ヨハネ3:15) 十字架は恥ずかしいものであるが、救いを受ける私たちにとっては 神の力となる(Ⅰコリント1:18) 〇 神の栄光の御子が恥ずかしい道を選ばれた その道は天国に行く道であり、門である 〇 十字架の道を恥ずかしく考えないのは救いを受けたためである これが福音であるが、福音を恥ずかしく考えないのが いのちであり、永遠のいのちである 〇 神の意図を知るのは恥ずかしいことではない 神を知って真理を知るのが永遠のいのちである 主が私たちをそこに追いやられた ※ 私たちは主とともに恥ずかしい船に乗っている この世が嫌う十字架の道が救いの力である 主イエスとともにする者はともに十字架につけられた

2020. 11. 15 神のように聖くなりなさい (ペテロの手紙第一1:13~25)

  神のように聖くなりなさい (ペテロの手紙第一1:13~25) 神は 霊でおられる その方は 生きている実存であり、知識、知恵、意志を もっており、創造と裁きを御心通りになさる(ヨハネ1:1~4) その方の御言葉は 真理であり、神を知らせる霊である(ヨハネ6:63) 神と御言葉はひとつである(ヨハネ10:30) 人間は土で造られた物質である(創5:2) 神と物質の調和は不可能である(マタイ3:2) しかし、 神は自分を低めてこの世に来られた(ヨハネ1:14) その方は「肉と情欲を脱ぎ捨てて、(ガラテヤ5:24) 霊によって神に近づきなさい」ということを、 「神のように聖くなりなさい」といわれた(Ⅰペテロ1:15~16) 宇宙の中で肉体が神とひとつになるというのであれば、 区別がなくなるし、霊を否定するようになる(ヨハネ8:23) 神は霊によって働き、語られる(ヨハネ4:24) 私たちも霊によって生まれ変わり、霊に属さなければならない(ヨハネ3:3~8) これが聖くなるということである 聖霊は聖なる霊であり、私たちの霊を助ける 〇 肉体によってその方に近づけば、その方を見ることができない 聖くなければ、主を見ることができない 肉によって生まれたのは肉であるし、霊によって生まれたのは霊である 〇 私たちが悔い改めてバプテスマを受けたのは まことの生まれ変わりである 肉の情欲を脱ぎ捨てて、霊によって再び生まれる 〇 肉によって探すのは宗教に過ぎない 霊によって神を探す 神のように聖くなる者だけが神を見る ※ 神の御言葉は霊であるために、聖くならなければならない 聖霊が聖いように、真理によって聖くならなければならない イエスの人は聖くならなければならない

2020. 11. 08 まことの礼拝と仕え (マタイの福音書6:19~24)

まことの礼拝と仕え (マタイの福音書6:19~24) 神は 栄光を受ける方でおられる その方が 宇宙を創造し、その中に万物を造り、(創1:1) 天に霊的なものを満たし、 それらから栄光を受けられる(詩8:1) 礼拝を通して栄光を受けられる(詩26:8~9) 神は霊でおられるし、「霊によって礼拝をささげなさい」といわれた 私たちは肉体を超越し、霊によって礼拝をささげる 霊によらなければ、それは偽りであり、いのちをもたない 神の失望は大きい(ヨハネ4:23~24) いけにえの供え物は イエスが最後である(Ⅰコリント5:7) 霊とまことによって礼拝をささげる 霊魂を天に届けようとしても、 心が霊魂を縛ってしまえば、宗教儀式となる(ヨハネ13:2) それゆえ、 宝をささげなさいといわれた(マタイ6:19~20) 宝があるところに心もあるためである(マタイ6:21) 富(マモン)とは主人という意味である それが心にあれば、主人となるし、なければ、しもべとなる 〇 礼拝はただひとりの主人に仕えることである 富のしもべとなった者が同時に主に仕えることはできない 献金をささげるというのは「マモン」をあきらめるという意味である 〇 宝を天にたくわえれば、その心は天にある 宝を地にたくわえれば、その心は地にある 神は霊であり、天におられる方である 〇 天は霊であり、 神の本体である イエスをその本体のかたちと信じて頼る ※ イエスの中にいなさいというのは天に入って来なさいということである 礼拝は「自分の主人は天におられる」と認めるものである 神は唯一の主人でおられる

2020. 11. 01 十字架の道(御言葉) (コリント人への手紙第一1:18~25)

  十字架の道(御言葉) (コリント人への手紙第一1:18~25) 神は 義でおられる その方が この世に御言葉を遣わされたのはその方の愛であった(ヨハネ3:16) この世では罪と宗教が衝突する(マタイ23:13) 罪は宗教を否定するし、宗教は罪を嘲笑するが、 すべてが不義である(へブル9:14~15) 罪は神に逆らうし、 宗教は神をあざむく(へブル11:6) この2つは硬貨の表と裏のようなものであり、顔だけが異なる 神が憎まれる不義の道を行く 十字架の道とは 神の義のために神の御心に従うことである イエスは義のために神の御心をなそうとして来られた(ヨハネ6:38~39) それゆえ、 罪は不従順であるし、宗教は高ぶりである(Ⅰコリント3:10~17) 神の義を知らなければ、罪悪である この世は十字架の道を恥ずかしいものと考えるが、これは(へブル12:2) 神の知恵であり、力である(使4:12) 救うという者が殺されたので、呪いである 呪いの十字架の道は愚かなものとして宣べ伝えられる 〇 イエスは「誰でも私に従おうとするのであれば、 自分を捨てなさい、 そのようにしてこそ私の弟子である」といわれた 〇 自分を捨てる道は自分の十字架を負い、 血を流すまで不義と戦うことである 罪は死ぬし、義だけが生きるが、それが十字架の道である 〇 神の法則は人の考えと異なる イエスも義に従って神の御心に従われた それが十字架の道である ※ 自分の義は高ぶりであり、宗教である 不従順は罪悪であり、不信仰である 十字架の道だけがこれを克服する

2020. 10. 25 真理によって自由になりなさい (ヨハネの福音書8:31~38)

  真理によって自由になりなさい (ヨハネの福音書8:31~38) 神は 唯一でおられる その方が 多くの霊を造られたが、それらはその方に用いられる霊である(黙22:8~9) 永遠に自ら存在する方はひとりでおられる(ヨハネ17:3) このように 神が唯一でおられるということを信じるのが聖さである 天は唯一の方の本体である(ピリピ2:6~7) イエス・キリストは父のふところから 出て来られたし、天使は天の中で造られた霊であり、 神に用いられる霊である(Ⅰサムエル16:14) 被造物は真理でないために、いつかはなくなる(マタイ24:35) 自ら存在する方だけが永遠に存在するために、真理である(ヨハネ14:6) 神の御言葉は永遠の前からともにいたために、真理である その御言葉にとどまる者がまことの弟子となる(ヨハネ8:31) このように真理を知るのが自由であり、救いである(ヨハネ8:32) 自由な者はすべての罪過を脱ぎ捨てて、義とされる 自由な者が自由にするのであれば、自由になる(ヨハネ8:36) バプテスマは自由な者のしるしである(使19:2~7) 聖霊はその自由に印を押して保証される(Ⅱコリント1:21~22) 聖霊は真理の霊でおられる(ヨハネ16:13) 〇 被造物は堕落することもあるために、不義である 神が義でおられるために、その方の御心に従う イエスは義なる父の御心に従ってこの世に来られた 〇 イエスの御心に従ってその方に属すれば、義とされる よみの権勢が勝利することができない自由な者となり、 ともに神の子となる 〇 自由な者は義なる方の子である 神が自分の血によって価を払って買い取られたために、 永遠に義とされる ※ だまされてはいけない、人の知恵にだまされてはいけない 律法や良心をこれ以上、頼ってはいけない ただ真理によって自由にならなければならない  

2020. 10. 18 血を流すことによって罪を赦される (へブル人への手紙9:22~28)

    血を流すことによって罪を赦される (へブル人への手紙9:22~28) 神は 義なる父でおられる その方が 定められた御心は必ずなされなければならない(マタイ6:10) そうでなければ、その方は不義なる者となってしまう 信じなかったり疑ったりするのは自由であるが、 罪がないということはできない 神の御心に逆らって義から離れたのが罪である それゆえ、 「私はただ主に罪を犯しました」と告白する(詩51:4) ただ神に罪を犯したために、 神の血によってだけ赦しを受けることができる(レビ17:11) 人間が道徳的に犯した罪は律法時代にも赦しを受けたが、 律法は肉体の規定である(へブル9:10) 信仰が来たのちには獣の血によっては赦しを受けることができない ただ神に罪を犯したのである 不信仰の罪がどんなに大きいであろうか? ただ神に罪を犯したために、 神の血によってしか罪の赦しを受けることができない 不信仰と疑いは 神の血を流させる罪悪である(ヨハネ6:53~57) 神は自分の血によって罪を贖われた(へブル9:12) 〇 自分の罪を差し出して 神の血を飲むのが悔い改めである 〇 神の血を飲むという体験がなければ、その悔い改めは偽りである 私たちが悔い改めたときに、 主も同じように苦痛を受けられた 〇 よみという宇宙で生まれたものは必ず死ぬ 人の霊は天(霊界)で生まれたために、 必ず裁きを受ける ※ 私たちが信じるのは裁きを受けないためである イエスが代わりに十字架で裁きを受けられたので、 私たちはその恵みを受けて、バプテスマを受ける

2020. 10. 11 私たちの信仰は実状 (ルカの福音書8:26~39)

  私たちの信仰は実状 (ルカの福音書8:26~39) 神は 生きている主でおられる その方が この世に福音を与え、 福音に従って働かれるキリストの名を与え、 その名によって何でも得るようにされた(ヨハネ14:13~14) 罪の赦しを受けさせる悔い改め、 生まれ変わりに至らせるバプテスマ、望みを与え、(使2:38) 聖霊を私たちの心に与えられたが、これは実状である(ヨハネ16:7~14) 聖霊が私たちの心に入って来られれば、力が現れるし、(使1:8) その力の前で悪霊が追い出される(マタイ12:28) この世の人々は悪霊の存在を否定しながらも、 悪霊を恐れている(マルコ6:13~16) 文明時代であっても悪霊を否定する科学はない(マルコ5:25~29) しかし、聖書はすべての病気、不幸、呪いの原因は 悪霊であると教えている(マタイ8:14~17) 悪霊はイエスの名の前で正体を隠すことができないで(マルコ16:17~20) 自分を現しながら離れて行くが、それによって病気の根源がなくなる 私たちは主の御言葉を信じることによって救いを受けた 主イエスだけが教えられた、悪霊を追い出す力は 現実として現れている(へブル13:8) 〇 悪霊は人の体から離れれば、苦しむ(マタイ12:43~45)      追い出されれば、獣の肉体であっても入って行こうとする(ルカ8:29~33)      悪霊は最後に底知れぬ所に入って行く 〇 悪霊が偽りを言ったのであれば、      主が悪霊を黙らせたであろう      しかし、主は悪霊の時がまだ残っていることを認められた 〇 悪霊は主の御言葉があるところで隠れることができない      悪霊は不信者の死後の存在であり、肉体をもたない人格である      御言葉が生きていれば、悪霊はそれを知って身震いする(ヤコブ2:19) ※ 悪霊は恐れる存在ではなく、     イエスの名によって呪わなければならない存在である     […]

2020. 10. 04 悪魔の考え (ヨハネの福音書13:1~11)

  悪魔の考え (ヨハネの福音書13:1~11) 神は 義でおられる その方が 天でなした御心を(マタイ6:10) この地でもなそうとして御言葉を遣わされた 神の御名は「イエス」である(へブル1:4、ピリピ2:10~11) イエスという名は「天の栄光や力によって よみから完全に救う」という意味である(マタイ1:21) その方は神の知恵、知識、全能さを その体にもたれたが、天はその方の本体である(ピリピ2:6~8) その方は天でなされたイエスの名の意味を(マタイ6:9) この地でもなそうとして宇宙(よみ)に来られた その御言葉、真理がインマヌエルであり、(マタイ1:23) 「ロゴス」という(黙19:13) 「ロゴス」とは人格、知恵、理性、いのちをすべて含む、 唯一で固有な神の属性をいう それゆえ、キリストは(ヨハネ20:31) 神の本体である天のまことのかたちでおられる(Ⅱコリント4:4) その御言葉にとどまる者は天に属する者である(ヨハネ8:31) その方は天に属する者を聖霊によって守られる それゆえ、聖霊を助け主という(ヨハネ14:16~17) 〇 御言葉が肉体となって来た方が私たちを愛されるが、      よみ(宇宙)の権勢をもつ者、悪魔はこれをねたみ、      真理ではない自分のものによって偽る 〇 悪魔は主イエスの愛を受ける者にも      惑わしを与え、偽りを吹き込む      真理がないために、その言葉はすべて偽りに過ぎない 〇 悪魔の考えが入って来れば、霊的には堕落する      理性、知性、感性においては     「コロナ19」のように自分でも知らないうちに荒廃する ※ 聖霊に満たされなければならない理由がここにある     真理の愛を受けないで世俗的な考えを受け入れるのであれば、     […]

2020. 09. 27 機会を生かして用いなさい (エペソ人への手紙5:15~21)

    機会を生かして用いなさい (エペソ人への手紙5:15~21) 神は 永遠に生きておられる その方が この世に御子を遣わされたのは(ヨハネ3:16) この世に永遠のいのちを得させるためであった(ヨハネ6:40) その方は人間と万物に寿命を与えられた(へブル9:27) 寿命は去っていく機会のようにすぐに尽きる(伝1:3~11) 機会は待ってくれない 肉体は自分の霊魂のために使うロウソクのようなものである ロウソクが溶けてしまえば、火は自然に消えてしまう 主イエスが私たちの霊魂のために血を流された(Ⅰコリント11:23~29) 永遠のいのちに対する望みをもつのであれば、 血を流すまで罪と戦いながら、機会を生かして用い、(へブル12:4) 神に従って服従し、その方を喜ばせなければならない 永遠のいのちは恵みによって受けるが、報いは肉体の労苦の代価である(へブル11:6) すべての人がそれぞれタラントを受けたように、(マタイ25:14~30) 自分の働きをして最後に殉教しなければならない(黙20:4~6) この世に属してはいけないし、愚かな者となってはいけない(ヨハネ8:44~45) 主の御心が何であるのかを悟らなければならない(ローマ12:2) 神に属する者とならなければならないし、聖さを失ってはいけない(Ⅰペテロ1:15~16) 聖霊の導きを受けなければならない(ヨハネ3:8) 〇 神の命令が教会に与えられた      教会で互いに従って服従するのが聖さである      兄弟姉妹は主の戒めのようなものである 〇 この世のことに執着して恵みの生活をすることができなければ、      思いがけない日に機会は失われる      謙遜に、敬虔に永遠のいのちを待とう 〇 主の御言葉を聞くのが信仰である      宗教人は生まれ変わることができないで、ただ徳を積むが、      永遠のいのちの日に慰めを受けることができない ※ 風のようにすぐに去っていく機会を恨まないで、     聖霊によって生き、霊的にならなければならない   […]

2020. 09. 20 人をとる漁師となろう (マタイの福音書4:17~22)

  人をとる漁師となろう (マタイの福音書4:17~22) 神は 永遠のいのちでおられる その方が イエスをこの世に遣わして、 御心をなそうとされた(ヨハネ6:38~40) 神の御心は信じる者をすべて救うことである イエスの救いは霊魂の罪を代わりに贖い、 霊魂に永遠のいのちを得させるものである 旧約時代のイスラエルの神である天使は 宇宙の中にあるいのちと祝福、死と 呪いの中からいのちと祝福を得させた(申30:19~20) エホバの名によってイスラエルはこの世に耐えて 祝福を受けたが、永遠のいのちを得た者はひとりもいなかった(ガラテヤ3:1~5) ただ肉体の規定として戒めを受けた(へブル9:8~10) イエスは肉体のために一度だけ使う、 魚をとる働き、婚礼のしるし、5つのパンと2匹の魚の しるしを見せられたが、これは一回的なものであった(マタイ14:17~21) 魚をとる方法、ぶどう酒を作る方法、 5つのパンと2匹の魚のしるしは一度だけ使うためのものであった それによって永遠に生きることはできなかった イエスが来られたのは信じる者を救うためであり、 永遠のいのちを与えるためであった(ヨハネ3:16) その方は人をとる漁師となりなさいといわれた(マタイ4:19~20) 〇 肉体の利益のためには従わせたし、     霊魂の利益のためには信仰をもちなさいといわれた 〇 魚をとる技術ではなく、     人の霊魂をとる力を与えられた 〇 主の召しを見なさい     主とともに霊魂を救う者となって、すべての人の前に出て行かなければならない     私たちはすべて召された者である ※ 主に魚をとる技術を求めないで、    人の霊魂を救う力を求めよう    聖霊の助けなしには不可能なことをする力を求めよう